NPO法人モースト理事長で、海外での医療支援及び交流活動を展開してきた津谷静子さんが『イラン毒ガス被害者とともに』(原書房)という本を出版した。その中に「大久野島の毒ガス資料館と行武正刀先生」という文章があるので、抜粋して紹介しよう。
「広島は、原爆を投下された町として知られています。いっぽう、広島県内の島に、第2次世界大戦中、旧日本陸軍が建てた毒ガス製造の施設があったことは、あまり知られていません。この施設は、竹原市の沖合3キロの大久野島という小さな島に建設され、1929年から1945年までの16年間、化学兵器としての毒ガスが製造されました。およそ6600人がこの工場で働き、マスタードガス、ルイサイト、催涙ガス、青酸などを生産。戦後、残っていた毒ガスは処分されました。しかし、毒ガス製造の問題はそれで終わりませんでした。戦時中、毒ガス製造は軍事機密であり、十分な説明を受けず、知識がないまま毒ガス製造に関わった工員や戦後の毒ガス処分に関わった人は、毒ガスにさらされ、戦後も深刻な健康被害に苦しむことになりました。
この毒ガス後遺症に苦しむ人たちを40年以上にわたり診察し、丹念な聞き取りを行い、治療法の研究に尽くしたのが行武正刀先生です。私は、イランで毒ガス被害者にはじめて出会ったあと、毒ガス障害について学びたいと思い、忠海病院に行武先生を訪ねました。忠海病院は、大久野島の対岸の竹原市にありました。元は大久野島の毒ガス工場の従業員と家族のための診療所として発足した病院でした。その後、1954年に『ガス障害者救済のための特別措置要綱」が制定され、毒ガス工場の従業員の療養のための医療機関として指定を受け、現在は、呉共済病院忠海分院となっています。この忠海病院に、行武先生は1962年に広島大学から赴任しました。ときに行武先生は27歳。以後、行武先生は、思い症状を抱えて連日押し寄せる患者さんの治療に奮闘されます。『毒ガス被害の話は聞いていたが、これほどひどいとは思わなかった』と印象をもたれるほど、被害は深刻な状況でした。日本における毒ガス研究は、行武先生が忠海病院に赴任する10年前の1952年に広島大学ではじまりました。大久野島の関係者が肺ガンにかかり、広島大学病院を受診したのがきっかけでした。当時は珍しかった肺ガンが、なぜ大久野島で発症したのかという疑問から、島で集団検診が行われるようになりました。広島大学は、大久野島の関係者がどういう病名で亡くなったか統計を取っています。それによると、統計を取りはじめた最初の10年は、呼吸器疾患で亡くなった人が半分近くあり、その中でも、若年者の喉頭ガン、肺ガンという呼吸器系のガンの比率が高いという特徴がありました。行武先生の話から、大久野島の毒ガスによる被害には、呼吸器障害、皮膚障害が多いこと、現在でも完治は不可能とのこと、呼吸器障害は外見からはわかりにくいが、重症の人は健康な人の30パーセントしか肺が機能していない等々、毒ガス被害について、私たちは多くを学びました。これらの知識は、イランの毒ガス被害者を理解するうえで、たいへん役立ちました。
イラン・イラク戦争でイラク軍がイラン兵やクルド族を制圧するためにマスタードガスを使用したことはほとんど報道されていませんが、行武先生はその事実をご存知でした。そして、私が情勢不安定なイランの辺境部を訪ね、毒ガス被害者と直接会ったことに驚いておられました。私はイランの毒ガス被害者を広島に招くとき、広島平和祈念資料館だけでなく、大久野島の毒ガス資料館も見てもらいたいと思いました。毒ガス資料館とは、名前のとおり大久野島の毒ガス製造の歴史を伝える資料館です。毒ガス製造装置、作業服など当時に使われていたものが展示されています。また、島のあちこちに毒ガス工場の建物の跡が残っており、歴史を伝えています。そして、大久野島を見学したあと、忠海病院に行き、行武先生に毒ガスについて講義をしていただけたらと思いました。行武先生は、私の申し出を快く引き受けてくださいました。
こうして2004年8月、イランからの一行を迎え入れた私たちは、広島市からバスで忠海港へ行き、行武先生と合流。先生と一緒にフェリーで大久野島に渡りました。行武先生の案内で、毒ガス資料館に入ると、イランの人たちはひとつのパネル展示に釘付けになりました。それは、イラクの山岳地帯に住むクルド族が毒ガス被害を受けた様子を伝えるパネルでした。イラク軍は、敵国イランだけでなく、自国のクルド族にも毒ガスを投下していたのでした。皮膚科医であり、自身も毒ガス被害者であるナヒーさんは、恐ろしい毒ガス工場があった島に、毒ガス資料館を作っていることに感心していました。(中略)
翌2005年6月、行武先生は、私たちのイラン行きに同行してくださいました。関西国際空港から13時間の長旅です。イランは気温が50度を超えることもあります。また、予算が限られているため、日程はハードです。食べ物も日本のようなわけにはいきません。正直なところ、70歳の先生には厳しい旅だと思いました。しかし、行武先生は、イランでは研究者のシンポジウムに積極的に参加し、毒ガス障害の治療について発表をしてくださり、イランの医師たちは熱心に先生の話を聞き入っていました。たいへん実りの多い交流となりました。(中略)関西国際空港に戻り、広島へ向かう帰りの新幹線で、行武先生から私は意外な言葉をかけられました。『私は高齢だから足手まといになると思うけれど、生きている限り、このイラン行きに同行させてください。イランの毒ガス被害者に会ったとき、自分のこれまでの40年の仕事に意味があったと思えたのですよ。私のいままでの仕事は、このときのためにあのです』行武先生は、とても晴れやかな顔でおっしゃいました。先生は、言葉どおり、それ以後も毎年私たちのイラン行きに同行してくださり、毒ガス障害の治療についての講演や現地の医師への研修など積極的に関わってくださいました。また、テヘランに毒ガスの資料を展示する平和博物館を作るときは資料の提供や助言をいただきました。」(津谷静子『イラン毒ガス被害者とともに』P112~119)