前号の忠海再発見で「この巌谷小波の句碑がなぜ忠海にあるかは定かでないが、‥‥‥この中国地方巡講中、忠海にも立ち寄り、黒滝山を眺めて、句碑に記されている一句を詠んだのではなかろうか。この句には不治の病への予感すら感じさせるものがあるような気がする。」
と書いたところ、早速アヲハタの関係者の方からお電話をいただき、この句碑は昭和35(1960)年の4月に、当時アヲハタの社長であった廿日出要之進氏らの手によって建立されたものであることが、明らかになりました。
そしてその経緯を書いたその当時の社内報『アヲハタクラブマンスリー』のコピーをいただきました。そこでその中から、巌谷小波の句碑がなぜ忠海にあるかを書いた一節を紹介して見ましょう。
「4月7日と言えば、黒滝山の中腹の桜も満開で、瀬戸の内海も春霞が棚引き春酣とも申すべきでしょう。この良き日を選び、黒滝山の登山口に建てられた、巌 谷小波先生の句碑の除幕式を挙行しました。碑面には先生が昭和8(1933)年5月この地へご来遊になられ、その節、羽白様の御懇望で揮毫せられた名句、 『ただ頼む大悲の山や五月晴』と刻まれて居ります。先生は在世中、明治、大正二代にわたる童話の大家で、しかも俳人であられたのであります。常に全国を行 脚されこの地にも馴染が多いと伺っております。(中略)実はこの句碑の建立には、次のようなエピソードが秘められて居るのであります。
この碑石は忠海郵便局長の所有地に埋没して居り、これに触れれば腹痛を起すと伝えられ、市民から敬遠されていた奇石であったのです。篤農家脇岡氏の御発心 により、立石氏の手にて縦に起こされ、多和氏の設計に依り、この石碑の建立を見たのであります。さて石碑はできたがこの活用にはたと困ったのであります。
昨年、中島様の喜寿のお祝の席上、羽白氏が巌谷先生の前述の名句を示されこれをこの碑石に写して、先生を顕彰せられたいご意向を洩らされた処、中島様は幼 少の頃愛読せられて居られたものか、直ちにご賛同を得られたのであります。羽白様は恰も暗夜に活路を見出された如く、早速ご所有の軸を明紀館に依頼されて この石碑に映るように拡大され、石工梶白氏の手によって刻削されたのであります。」
(廿日出要之進『巌谷小波先生の句碑について』)なおこの文章には、尾崎紅葉の『金色夜叉』の貫一のモデルが巌谷小波であることも紹介されています。