文春文庫から『私たちが生きた20世紀』という本が出版された。編集後記によると、この本は、二〇世紀の最後の年、西暦2000年初頭に、『文藝春秋』2月臨時増刊号として発行されたものを、このたび文庫本におさめたということである。
この本に、作家の阪田寛夫が「父の書いた社是」という一文を寄せている。引用してみよう。
「1901(明治34)年といえば、わが家の歴史では、広島県の小さな港町で郡役所書記をつとめて来た祖父が、千円持って大阪に出て、予定外の新聞インキ 製造業を始めて五年目、漸く梅田駅裏に間口十間ながら自前の工場を建てた、という年だ。祖父は若い頃から俳句をかじり、事業家には最も遠いタイプだが、勘 と運だけはよかった。日清戦争が起った翌年役所をやめて広島市の銀行員になり、この町が兵站基地としての役目を終えた明治29(1896)年、運送店を始 めると称して大阪へ出た。そんな男の前途を危ぶみ、舅は忠僕を付けてよこした。果たして運送店開業のめどは立たず、岳父の忠僕はとりあえず業務見習いに神 戸の運送店に住みこんだ。ある晩祖父は一杯飲屋で、これからは新聞インキに限ると話す男と隣合わせた。親方と喧嘩して飛び出したばかりの職人で、製法の秘 密も心得ている。大釜一つと練肉用石臼一つで出来る固い商売だという。祖父はその話にとびついた。修業に出した忠僕のことも忘れていきなり準備をはじめ た。だが経営が苦しい上に、販売掛にインキの売逃げをされ、開業早々祖父は郷里へ金策に赴いたまま、なぜか翌々年まで戻らなかった。四人の男の子を抱えた 有能な妻は代って陣頭に立ち、忠僕の奮闘もあって、店主不在のまま負債を返し、事業の基礎を固めた。これがささやかな印刷インキ屋誕生の神話である。日露 戦後の明治39(1906)年には商号を阪田商会と改め、東京にも進出して、祖父母一家の暮らしが楽になった。祖父は、次男である私の父が東京高等工業応 用化学科を卒業するのを待ちかねて隠居し、俳句三昧の生活に入った。」(阪田寛夫「父の書いた社是」文藝春秋編『私たちが生きた20世紀下』文春文庫所収 P102~103)
この祖父こそ阪田桃雨で、小さな港町は忠海である。忠海の城山にこの桃雨の句碑がある。昭和11(1936)年元旦桃雨80歳の時、古城主、浦宗勝を追想 して建てたもので「浦の名の花や誉の古城跡」とある。 『安芸津風土記』に阪田泰正氏によって阪田桃雨が紹介されているので引用する。
「阪田桃雨(1857~1944)。桃雨は名を恒四郎と言い、安政4(1857)年7月9日、阪田林助(母キミ)の次男として大阪堀江で生れた。当時父の 林助は忠海より大阪の地に出て幕府の御用銅吹所熊野屋彦太郎の副支配人を勤めていたが文久元(1861)年10月故郷に錦を飾り余生を安楽に暮らそうと忠 海に帰ってきた。恒四郎4歳の時である。明治5年恒四郎が16歳の時父が死亡。爾来母の手一つで育てられていたが、明治13年当時の郡長であった松浦唯次 郎の推挙により豊田郡役所書記に任ぜられた。翌14年5月15日、三原藩の国学者沖加都麻(勝間)の四女ツネと結婚し5男4女をあげた。明治27年、考え るところがあって、官職を辞し、明治29年大阪に移り、印刷インキ、ワニス製造販売業、阪田インキのち株式会社阪田商会を創業し、新聞インキの大手となっ た。その間、同業組合を起こし、推されて組合長となった事もある。大正5年、還暦に達するや家業を次男の素夫に譲って隠居生活に入り俳句を楽しんで芭蕉さ ながらの生活を送った。ところで、恒四郎は明治7、8年頃から広島市の多賀庵由池翁について数年間俳句の指導を受け、15年春から三原町の平田虚心庵十水 に師事して俳句に心を傾け、多賀尾女史、京都芭蕉堂露翠翁及び大津義仲寺無名庵霞遊宗匠等に引き立てられた。俳号を桃雨と号し、昭和4年7月、阪田商会に 若草吟社をつくり宗匠として活躍した。旅行と風呂が好きで78歳で富士登山をやったり、九州耶馬渓をたずね山陽をしのんで『筆掛の松仰ぐ厳やかへり花』の 句を作ったり、鞆仙酔島で『島の灯の潮路にゆれて夏霞』の句をよんだり旅の逸話は数限りない。昭和18年桃雨翁米寿祝賀大句莚が高弟の石川藍折によって竹 林寺で開催され、近畿各地より宗匠、先生、俳友の会するもの150余名、祝吟300余章、集句5000に及ぶ大盛会であった。昭和25年この日の感激を永 久に記念するために、句集『若竹』が発刊された。昭和19(1944)年3月5日歿。享年88歳。」(阪田泰正「忠海の句碑」『安芸津風土記』第12号所 収P61~63)