R185沿線はもともと「海の道」でした。したがって「まつり」も海と非常に深いかかわりをもっています。旧正月に行われる神明祭(とんど)は、三原城主 小早川隆景の神明信仰がその領内に広まったものと言われ、三原市では「だるま市」で有名な神明市が開かれます。2市3町のなかで一番豪壮な神明さんは忠海 二窓のもので、小早川水軍の大将であった浦宗勝ゆかりの神明さんと言われており、山口県の柳井市には浦宗勝転封にともない二窓とまったく同じ神明さんが継 承されています。竹原市の神明祭は、いずれも小早川水軍と深い関わりがあります。ここに掲示している末宗は竹原小早川の居城木村城の麓の集落であり、昔は 正部、受矢、宮原を通って市や港のあった中通に出ていたものと思われ、その沿線に「とんど」が残っているのも興味深いと思います。また東野、西野には手島 屋敷に見られるように小早川の家臣団が居住しており、忠海の浦氏や大乗の高崎氏は小早川氏の庶氏にあたります。またこの神明祭(とんど)は吉名、安芸津、 安浦、川尻などの浦一帯に伝わり、小早川水軍の水主たちがこの祭の中心を担っていたことを伺わせます。「とんど」の正しい名前は「左義長」で、元は宮中で 正月十五日に、清涼殿の庭で、青竹を立て、扇などを結びつけたものに古書を添えて焼いた行事が民間に伝わって「とんど」となりました。長い竹数本を芯とし て門松やしめ縄や書き初めなどを持ち寄って焼く行事で、その火で餅を焼いて食べると、病気にかからないと言われています。なおその時「とんどや、さぎっ ちょう」とはやしたので「とんど」という名がつきました。
宮島の管弦祭は、旧の6月17日の夜に行われますが、祭神の乗り移った鳳輩を管弦船に移し、楽人の奏する管弦の調べとともに対岸の地御前神社へ渡御する祭 で、楽器が笛、笙、太鼓、琵琶などであるため、この名があります。鳳輩は呉市阿賀の人々に守られて、大鳥居をくぐって沖の管弦船に運ばれます。この管弦船 を曳くのが阿賀のお漕ぎ船で、元禄14(1701)年、地御前から帰る管弦船が、途中で激しい風雨に遭い沈没寸前になったとき、その近くで漁をしていた阿 賀の鯛網船と江波の伝馬船によって救助され、それから阿賀と江波の漕ぎ船が管弦船を曳くようになりました。阿賀の漕ぎ船は、鯛網船に由来するため2隻で一 組となり、それぞれの船には六丁の櫓があります。
この管弦祭の流れを汲むのが安浦町柏島神社の管弦祭で、海上交通の安全と豊漁を願って明治初期から始まったと伝えられています。祭りは午後3時から柏島神 社ではじまり、ご神体が神輿に乗り、若者たちが境内で威勢よく練り歩いたのち本番の海上絵巻となります。色鮮やかな天幕が張られ、『柏島神社』と大書した 幟で飾った御座船3隻が横一列に並び、尾道市吉和町と地元安浦町の若者が漕ぐ曳き船が先導します。御座船の舳先に立つ指揮者が幣を掲げて進路を示すと、大 漁旗を押し立てた供船約百隻が右へ左へとうねりながら進みます。笛や太鼓の調べが流れるなかで、柏島の周囲約四キロの海上を一周し祭りはクライマックスと なります。
つぎに祇園祭を紹介しましょう。安芸津の祇園祭は宝暦年間(1751~63)に京都を訪れた三津の村役人木原安右衛門が祇園祭を見てたいへん感激し、その 祭りの形を故郷に移そうと考え、神輿や傘鉾の衣裳などを寄進したのがはじまりといわれます。その後いろいろなものを案出して祭りに加えました。たとえば大 名行列の「奴の行列」です。当日神社で神事が行われた後、神輿を先頭に鬼の道行き、傘鉾、奴行列とつづきます。奴は約百名の若者たちが黒い法被に陣笠、ワ ラジ掛けの奴姿で先箱、鉄砲、弓、毛槍を担ぐ。中でも毛槍は大名行列らしく、町の所々で、大きく毛槍を振って投げ交わします。
竹原市忠海町の祇園祭の特徴は神輿で、重さ六百キロはあると言われる神輿を、右に傾けたり空高く差し上げたり、横倒しにしたり、自由自在に操って見せま す。神輿の動きは祭神であるスサノオノミコトに退治されたヤマタノオロチを模したものといわれます。神輿を担ぐのは「こっさん」と呼ばれる二十歳になった 若者で、青い鉢巻き、白い法被の足袋はだし姿で、背中に「猿」と呼ぶ可愛らしい飾り物をいくつも吊るし、この「猿」を取ると無病息災のお守りとなると言わ れています。
一方川尻町の祇園祭は、山車が特徴で絢爛豪華な京都の山鉾を模しており、夜には提灯に彩られます。また竹原の祇園祭で担がれるふとん太鼓は、吉浦のカニ祭 りや三原市幸崎町能地の神輿と同じかたちをしています。このようにして海の道を通って瀬戸内海沿岸に祇園祭が伝播し、安芸津は行列、忠海・竹原は神輿、川 尻は山車というふうにそれぞれの特徴が継承されているところが面白いと思います。
つぎに秋祭りを紹介しましょう。川尻の秋祭りは新宮神社の男の神様が神輿に乗って大歳神社の女の神様に会いにいくという楽しい祭りで笛や太鼓の音も賑やかに町中が浮き立ちます。
六月に行われる実盛人形に悪い苗を託して虫退治を祈る虫送りも新宮神社を出発して大歳神社に至ります。
また呉の亀山神社大祭はヤブと言われる鬼と神輿の激突が圧巻。この祭りで売られる「イガモチ」は呉の名物です。また仁方の八岩華(やいわな)神社の祭礼で は米俵をくくった神輿を空高くほうり上げたり、伊勢から伝わった櫂踊りが舞われます。また秋祭りにつきものは神楽と獅子舞です。呉市の小坪神楽は沿岸部に は珍しく神楽が原初的な形態で継承されています。また竹原市福田町の稲生神社の祭で舞われる福田の獅子舞や忠海の秋祭りで舞われる掛場の獅子舞もいずれも 讃岐や伊予地方から伝えられたものです。
このように二市三町(竹原市、呉市、安芸津町、安浦町、川尻町)の「まつり」を見て行くと、この地域の文化が「海の道」を通じて伝播したことがわかりま す。小早川水軍と神明祭、管弦祭と漁師、京都祇園祭や伊勢音頭の伝播、讃岐伊予からの獅子舞の伝播など興味はつきません。また安芸津や竹原の杜氏が酒造り のためにそれぞれの蔵に向かって歩いた「道」も興味ぶかいものです。「酒と肴」「まつり」などの文化が「道」を通じて深化し豊饒なものになっていく様を見 るとき、R185がこのような文化交流を育み、情報を伝達する上で果たす歴史的な役割を実感します。