忠海俳句会をリードしてきた俳人・天野萩女さんは平成18年4月24日に亡くなった。大正5年生まれの90歳であった。最期まで句作に励み、辞世の句は「桜吹雪 吾が生涯に 何ひとつとてなし」「遠近(おちこち)の 花見れば、けふは晴天」というものであった。
私の父が子風という俳号で忠海俳句会に加わっていたご縁で、私も忠海俳句会に寄せていただき、晩年の萩女さんにご指導いただいた。その萩女さんの追悼句会で私は「萩女忌は 静かに海の 音を聞く」と詠んだ。
私の書棚に、天野萩女の句集『海の音』がある。広島の古本屋で手に入れたものだが、忠海俳句会に加わって何度か読んだ。
句集『海の音』は昭和56年に藤田湘子が主宰する鷹俳句会から刊行されており、その序で藤田湘子は次のように書いている。
「俳句という型式は、誰でも自由に選べて、誰でもすぐ馴染んでしまえるようなところがあるが、仔細に眺めると、反対に、俳句型式 のほうで人を選ぶといった面があるように思う。たとえば、かなりの文才もあり作句にも意欲的でありながら、いつまでたっても句づくりの要領が身につかぬと いう人がいるけれど、これは相性が悪いのである。本人はその気であっても、俳句のほうがこちらを向いてくれぬのである。わずか17音の型式だが、あれでな かなかしぶといところがあると思うのである。
『海の音』の著者天野萩女さんは、その点、根っからの俳人であると思う。萩女さん自身にとっても、俳句が一番身に合った表現型式であるように感じられる し、俳句型式のほうでも、始めから嬉々として萩女さんに隋順しているといった趣がある。つまり相思相愛の仲といってよい。『海の音』の原稿を通読して先ず 感じたことは、以上のようなことであった。
『鷹』に入会する前の萩女さんは、川本柳城氏の主宰する『ひまわり』の主要同人として活躍していたことは知っているが、私はそれ以上の詳しい句歴は知らな い。しかし、昭和30年から48年までの、『海鳴』『木場』『卯浪』『櫓音』の各章を見ても、萩女さんは17音の中でいきいきと呼吸していることがわか る。息づかいに乱れがない。これは相思相愛の証拠といってよいであろう。しかも、萩女さんの息づかいは、年ごとに深く大きくなってゆくことが、読み進むう ちにはっきりと感じとれる。『怒涛』『水際』『白波』『魚町』からさらに『青潮』『夜振』『曳舟』へと、一種の風格を伴いながら深まってゆく。
そうした中から、いま十句を抽くとすれば、
お四国へ 花かげつたひ 詣でむと
青紫蘇を きざむ何年も 刻みをり
草刈女 雫となつて すすみけり
山寺へ ようおいでたと 春火桶
うをじまや 誰送るにも 駅小さし
お遍路の だいじにされて 白玉屋
稲妻や 小面の唇 ひらかむか
紫蘇の実や 誰も日暮の 中にゐる
虎落笛 かの半島に 子を産みし
たれかれに 引揚の疵 ふきのたう
などを私は挙げたい。いずれも五十四年以降の作であるが、この時期の萩女さんは、ある自在さを身につけたと思う。この十句だけを見ても、多彩であり鮮烈であって読んでいて実におもしろい。俳句という型式と気が合っていなければ、こうはゆかぬと思う。
特に誌しておかなければならぬことは、萩女さんには引揚者としての傷痕が深く遺っていることである。このことは、先に挙げた十句末尾二句からも察せられる し、また、萩女さんがときおり『鷹』に書く小文にも、はっきりと表われている。けれども、そうした思いを、萩女さんはけっして大声だして叫ぼうとしない。 むしろ、抑えに抑えている。抑えに抑えたものが、時に深い吐息となって発したのが、虎落笛の句であり、ふきのとうの句であると私は思う。
もう一つ特記すべきことは、海である。萩女さんと海とを切り離せぬことは、この句集の題名や各章の小題でわかると思うが、これはただ、海のほとりの忠海に 住んでいるからこうなったというのではあるまい。もっと切実で激しい想いが海へ向ってある。海が、萩女さんの拠りどころとしていつもあった。私はそのよう に感じているのである。
私は昨年5月、はじめて忠海へ行って、萩女さんの海を見た。瀬戸内の海は、おだやかで、やわらかく、まぶしい光に溢れていた。私は、萩女さんはこの海へ 向って心を慰さめ、語り合ったのだな、と思った。萩女さんが句集を上梓するとしたら、海の音という題名がいいと、私はその時思ったのである。」(『句集 海の音』P1~6「藤田湘子序」)