十九日 曇天報恩講参詣人別百二十人ナリ仕度二百人ニテ百六十 五人ナリ○家元近藤泰助殿ヨリ書状到来上方大地震大廈申来リ左ノ通リ先大坂當月五日朝五ツ半コロ同五日夕方同夜五ツ時殊ノ外大地震津浪ニテ橋敷十一落テ右 地震除ケニ茶舩三十石上荷舩ニ悉乗居候処夜五ツコロノ大津浪ニテ川口ヨリ大舩小舩不残道頓堀大黒橋迄流込候テ右舩ニ居候老若男女不残大舩ニ押敷カレ急死致 候右流込候大舩小舩モ破損イタシ舩敷斤千弐百艘斗死人數不知先死ガヒ上リ候分四百人□□ハ不知人數五六百人ト申ス事古今未曾ノ大廈東海道宿々地震飛脚屋ヨ リ申来候処左ノ通リナリ
一 吉田・半潰レ 二タ川・同前 白須賀・同前 荒井・舩一艘モナシ
一 舞坂・大津浪ニテ皆流 濱松・大崩 袋井・丸焼 掛川・丸焼
一 日坂・無事 金谷・半焼 島田・少潰 岡部・少潰
一 丸子・少潰 江尻・丸焼 府中・半焼 沖津・大津浪
一 由井・無事 神原・大火 岩渕・半崩 富士川・水無シ
一 吉原・丸焼 村々甚出未ト申処ニ可有之ヤオソロシキ事ナリ○西ノ頭用心ニ番ニ参ルナリ
ここでは灌園坊の嘉永7年11月4日から19日までの『日記』を掲載した。この『日記』を見ると、東南海地震が、東海道各地、大坂さらには瀬戸内海各地に 大きな被害をもたらしたことが明らかになっている。忠海近辺でも被害があり、見舞いの到来や、檀家への見舞いの記述が多く見られる。また、19日には家元 から大坂の被害状況、飛脚屋からは東海道各地の被害状況が伝えられている。
ところで先に紹介した宮負定雄著『地震道中記』には灌園坊に飛脚屋が伝えた東海道の被害状況が詳しく述べられているので、紹介しよう。
一、吉原宿八分通り潰れて火事となり、丸焼けなり。ここより西の方、本市場、ふじの白酒の邊立家一軒もなく悉くつぶれて哀れなり。富士川迄同様皆潰れて、立家一軒もなし。
一、富士川、霜月四日五ツ時、甲州の小船貳艘岩渕より塩を積ミて引船ニ而、上る時ニ大地震となり、東岸の山崩れて落、其塩船貳艘共に山崩の下敷となりて水 底に沈む。壱艘ハ四人乗ニテ八人なり。其内六人飛上りて助かり、貳人ハ死たり。また川の西の岸高記所に往還ありて此近所松野村の人、馬を引て通りしが、其 大道崩れ落ち、人馬共前の山崩落ちての土の上に落ちて無難なり。人馬共に東岸に渡りて命ハ恙なし。斯て、富士川此処にて埋まり、ここより岩渕渡し場迄廿余 町の間、河原となりて水流れず、渡し場歩行渡りとなる。土人おもふにたちまちにて大水一時に押来るべしとて、人々山に登りて用心せしに、其日の八ツ半時此 山崩の土石、一時に流れ出して岩渕に来る。夫より川の瀬大きに変りたり。一、岩渕宿、人家悉く潰れ、地形は崩れ見る影もなし。ここより蒲原迄の間在々人家 倒れ、大路、田畑のわれたる事恐ろしき事なり。富士見峠の茶屋無難なり。ここより西は大破なり。
一、蒲原宿、人家残らず地震にゆり潰れ、丸焼となる。山上の松の大木根ゴミになりて、崩れ落て見えたり。ここより由井の間、薩陲峠の邊、山崩れなく無難なり。
一、由井宿、一軒も破損なし。
一、沖津宿、破れ少し、しかし内々は痛み多き由、ここより江尻迄の間往々大破なり。清見寺障りなし。
一、江尻宿、町家千軒皆ゆり潰、出火にて残らす丸焼なり、死人は多し。町中なる巴川の児橋は残る。此西橋詰に東海道第一の楠の大木有しが焼枯たり。惜しむ べし。此宿の東の入口に、いかめしき立宿一軒ありしが、地震の破れ無く、いささかの曲がりもなく、ふしきとおもひしが、土人の咄に此家ハ至て隠徳有て、善 行ある家なる由、さも有るべし。とかく人は隠徳善行を心かくへき事なり。ここより南の濱手、清水の湊、久能山抔大破なるべし。