古本屋で藤井昭編著『安芸の伝説』(第一法規)という本を見つけた。その「はしがき」には次のように書かれている。「広島県は安芸と備後の両国をその範囲としている。安芸と備後とはいろんな意味で比較して取り上げられる場合が多い。伝説の伝存の状況もしかりで、その質・量ともに備後の方が優位に立つといわざるをえない。そのことを単一の理由で説明することはできないが、安芸が長い間、真宗の強い影響下にあったことに関係があろう。すなわち、戦国時代に真宗が国内に浸透し、『安芸門徒』の名前で知られるように真宗一色に塗りつぶされた。この宗派は阿弥陀信仰を専らにし、在来の仏教諸派の信仰や神祇信仰、あるいはそれらにまつわる習俗を排除しつづけたから、伝説の内容がかなり淡泊なものになっても無理からぬ点があると思われるのである。それゆえにか、口承文芸を研究するものにとっては、魅力ある対象とはなりえず、若干の代表的な伝説が取り上げられたにとどまり、形をくずした多くの伝説はそのまま忘れ去られようとしている。歴史研究者にとっても文献重視の傾向から、伝説の史料的価値は一段と低いものとされ、その取り扱いにも定着したものがないようである。」(『安芸の伝説』P1)そのような中から抽出された伝説の中から忠海に関するものを抜粋して紹介しよう。
西養寺の本尊阿弥陀如来
この像は聖徳太子の作といい、むかしは、越中国(富山県)の船主村田重太郎の崇敬するところであったが、芸州豊田郡忠海浦(竹原市忠海町)の西養寺に仏跡をとどめんとの夢想が再三あるので、ついに重太郎も船で忠海浦まで運び、西養寺におさめ帰路についたのであった。
のち、海賊がこの霊像の話を伝え聞き、盗み出して、大崎島から御手洗浦へと運んでいたところ、毎夜、深更になると、「われを、西養寺へ返せ」と光明を放たれるので、海賊は、驚き、その罪を悔いて返したという。
また、像のいたんだ(壊れた)ところを補修しようとして、仏師に見せたところを補修しようとして、仏師に見せたところ、「この尊像は、わが手の触るるものではない」といって辞したという。(P131~132)
龍泉寺の鐘
むかし、商いのために唐へ渡った人が帰りの船の中、竹原市忠海の沖合で大風にあった。この商人は常日頃から観音を信仰していたので、難にのぞんでひたすら祈願したところ、龍泉寺(三原市小泉町)より光明がさし出て船を照らした。するとたちまちに海上は静まった。商人はたずさえていた馬の角と鐘を、お礼として龍泉寺へ奉納したのであった。
のち、鐘の音を聞いた海賊が寺へやって来て盗み出そうとしたが重くて動かなかった。そこで龍頭(りゅうず)と疣(いぼ)をもぎとって船へ帰って行ったが、にわかに烈風となったので、海賊は龍頭を海中へ投げ捨て、疣三個のみをたずさえて帰った。しかし、災害が相次いでおこったので、とうとう疣を龍泉寺に持参しておさめたという。(P153)忠海の石風呂
竹原市忠海町蕪崎(かぶらざき)にあった。むかし、ここは極楽寺境内の穴寺で、洞の奥に石の阿弥陀像があった。しかし、寺が廃され、長い間零落していた。そこで石阿弥陀を外に移し、中を石風呂に整えたものであって、新たに作ったものと違い、効能が著しかったという。(P65)
石地蔵
竹原市忠海町二窓浦の後ろにあり、「いしんぞう」と呼ばれている。むかし、このあたりが海であったころ、平清盛公がこの岩に船を寄せられ、岩の上に地蔵の絵を書き、彫刻されたものと言う。
また、弘法大師の御作ともいうが、いずれにしても霊験あらな尊像である。(P139)