四方洋著「『いのち』の開拓者」(共同通信社)という本の中に、「病気・信仰・事業、そして信念」と題して聖恵授産所の創始者井原牧生について書かれているので紹介しよう。
「聖恵授産所があるのは竹原市忠海町で人口6200人、合併して竹原市になる前は独立した町だったし、この町に旧制中学以来の忠海高校があって、まとま りがよい。その忠海中出身には高度経済成長を推進した首相池田勇人や画家の平山郁夫がいる。ラジオのニュース解説・唐島基智三もこの中学OBだが、この名 前は年輩の人しか知らない。
井原牧生も忠海の生まれである。大正14年生まれだから、会ったときは65歳。井原は車椅子であった。筋ジストロフィーという病気である。発病したのは 旧制中学4年のとき。改革派教会の牧師であった父が『出たなあ。申し訳ない』とつぶやいたのをおぼえていると話した。寿命は短いと思っていた。この病気に ついて井原は『難病、奇病の一つとして医学界で手をやかせた病気ですし、病状に伴って障害が徐々に進行してゆく“しろもの”だけに、普通福祉施設、特に授 産施設では敬遠して入所はことわるものです』と書き残している。」(P130~131) 「宿命としかいいようのない病気を自覚した井原は、神学校へ進も うとしたが戦争中で果たせず、戦後になって神戸の神学校に進学する。卒業すると忠海に戻ってきた。父は教会の牧師であり、広島で三番目に古い幼稚園を経営 していた。しばらく父の手伝いをしていたが、自分と同じ筋ジストロフィーの人たちが、受け入れてくれる施設もなく、働く場所もなくブラブラしているのをみ る。『だれでも働きたいのだ。けれども障害者には技術もなければ場所もない』と考え、同病の人に仕事をと模索しはじめる。」(P132~133)
「井原が考えた仕事は印刷であった。教会の小集会室に三人の障害者を引きとってはじめた。昭和35年のことである。井原は『神の計画』に基づいて『無謀 にも』事業のスタートを切ったが、毎日は平坦ではなかった。出て来たのは周辺からの反発であった。警察署からは『お宅の障害者を町に出してくれるな』とい われたし、市の福祉事務所からは『もぐりで医療行為をしているのではないか』と疑われた。近所の人たちも怖いものをみるように遠巻きにし、心配している感 じであった。障害者が異なるものとして特別扱いされ、不安がられたのは決して遠いことではない。忠海のように、おだやかな人情豊かな町でもそうだった。 (中略)ある日、県庁、市福祉事務所の職員が現場を訪れ『引導を渡す』ことになった。井原も覚悟を決めて一行を迎えたが、彼らは態度を急変させた。視察す るうちに言葉は出なくなり、みるみる感動の表情になっていった。研修生の仕事ぶり、職員の献身的な指導が、彼らの胸を打って否定を肯定に変えていったので ある。」(P133~134)
「井原は一冊の単行本をみせてくれた。『神中心の伝道』(R・B・カイバー著、山崎順治訳)である。ハードカバーの堂々たる一冊だが、少々お堅い。だれが 読むのだろう。売れるのだろうかと不安に思うが、教会関係者が読者だといった。教会の書店に並べられ、最高4千部くらいまでは売れるという。一般のベスト セラーに比べれば大したことはないが、井原は『われわれにとっては、4千部は大ベストセラーです』と話す。これらの単行本は研修生が企画、レイアウト、印 刷、製本、発送まで一貫してこなす。教会関係の比重が高いのは、地元の印刷業者と競合を避けているからだ。パンフレットや機関紙などを引き受けることはあ るが、競争して注文をとるなどはしない。地元とうまく共生していこうとする井原の考えが通っている。」(P135)
「井原夫妻に会ったのは平成2年であった。研修生は93人になっていた。3人ではじめた印刷の仕事は、30年ほどで30倍以上の人数になった。印刷の技 術も進歩していた。作業の工程を見学させてもらったが、ワープロが何台も並び忙しく動いていた。なかには足で打つ人がいた。足も、手もダメで、ひじで打つ 人もいた。車椅子から背を伸ばして活字をひろう人がいた。障害者の授産に印刷を選ぶケースは多いが、ここのレベルは日本でもトップクラスだと思えた。身体 は不自由で力は弱いが、動かせる部分を使って、それぞれが役割を果たしている。井原は『だれでも働きたいのです。神は人間を怠けものにつくっていない。不 自由な人間に何ができるか、という人もいるが、ウチの連中にはそんな考えはありません。職員もよく働きますが、研修生はそれ以上に働きますよ』といってい た。」(P137)
井原牧生は、聖恵会という社会福祉法人を通して、わが忠海の町の「いのち」の開拓者として生き続けている。