最近、中国新聞社が『瀬戸内の海人たち』という本を発行しました。著者は、森浩一(古代)、網野善彦(中世)、渡辺則文(近世)という当代を代表する歴史 学者で、この3人の学者によるシンポジウムをまとめたものです。この本の中に大三島の大山祇神社の門前町である三島市についての記述があり、そこに忠海が 登場するのでここに再掲してみます。
「江戸時代の三島市は、春と秋に立ちまして、大変賑わったところです。この三島市を賑やかにして、その運上銀(入市税、場床銀とも)は松山藩が吸収するの ですが、この地を岩城の港と同様、制外の地に指定し、一般の藩の支配とは違った支配をするようにしたのです。自由市と言ったら言い過ぎですが、そのように 位置づけて三島市を繁栄させるために特に富くじ興行を盛んにしました。1780(安永9)年から1784(天明4)年には月2回も興行されています。三島 市の富くじは賞金目当てのものだけでなく、松葉・木材入札、御売米入札などがありました。歌舞伎、芝居興行、あるいは牛馬市、囲碁・将棋(賭将棋)も盛ん でした。このように、あらゆる手段を講じて人を呼び集める努力をしています。
しかも、江戸時代はどこでもそうですが、いい遊女屋を置くことが人を集める、船をそこへ繋ぎ止めることにつながっています。
広島県と愛媛県の県境にある大崎下島の御手洗などはその典型です。大山祇神社の文書を見ておりますと、当時宮島では、管絃祭に代表される祭りの前後に市が 立つわけです。そのとき、300~400人の遊女をその市に集めています。三島市では70~80人集めていますが、『宮島のように集めたい』と言っており ます。三島市はもともと、川の両岸の洲のような所に立っていたのですが、洪水があったらいっぺんにだめになるので、安永(1772~81年)頃新地に市立 てをします。そのときに、松山や尾道、竹原、三原、御手洗、忠海から遊女屋を呼び集め、揚屋株8軒を公認しています。遊女屋を盛んにすることは、まちの繁 栄につながるわけで、御手洗なども多いときには人口の2割が遊女で占められていました。彼女らが船を御手洗に引きつけるわけで、やがて御手洗は広島藩第一 の中継的商業港として発展しています。遊女の役割も非常に大きいわけです。
注目すべき点は、三島市での芝居興行の宣伝です。松山領越智島の村は17カ村あります。大三島だけでも13カ村あります。もちろん芝居がいつ立つという触 れは、すぐに村々に回るわけですが、なんと、松山城下の辻札など6カ所に、『大三島でいついつ芝居興行がある』という立て札が立ち、大いに宣伝するわけで す。そして、今治城下にも芝居がありますよという立て札が4カ所、さらに広島藩領にも7カ所、竹原、忠海、三原、安芸津、御手洗、瀬戸田、尾道にも看板を 立てています。
このようにまちの繁栄のため人集めに努力しているわけです。」(中国新聞社『瀬戸内の海人たち』第3章「近世における瀬戸内の島々」渡辺則文P145~147)
ちなみに、当時の忠海の隆盛について、『忠海案内』は次のように記述している。「古来沖乗と言ふものの航海術発展せざる時代は勿論、所謂千石船の去来する 当時にても、瀬戸内海有数の海駅たるは顕著なり、九州平戸の城主、松浦藩の船が参勤交代等の道中宿駅や寄港地を定めし日記に備後鞆より備後田島へ3里、田 島より安芸忠海へ7里、忠海より蒲刈へ5里とあり。これは大阪よりの下り順路にして、船中日記には、高崎(竹原)、忠海、能地、山伏、野島、田島、阿伏 兎、鞆とあり又対馬藩主宗家の道中日記に、蒲刈、忠海、野藤(能地)、布刈瀬戸とあり。
即ち潮待ち又は宿泊地とせり。納米、積舟を始め諸物産の集散殊に海産物の市場として、内海の中枢を占め、今治、福山、玉島、尾道、広島等の中継港なれば、 北前船その他殆ど全日本の船舶港内に輻輳し、豪華を極め、従って、問屋業、海運業、両替屋、造船業、酒製造業等、殷賑するや古来海港又は宿駅には必然的に 遊女屋繁栄せるものなり。(中略)
当町も昔向町に、浜屋、姫路屋、金屋、大要、その他軒を並べ全盛時代にはその数150余名に達せりと記録せり。」 (忠海商工会『忠海案内』P8~9)