過日、忠海公民館で閑渕流という流派の生花の同好会を7月から始めたいということで来館された際に、実はこの閑渕流というのは忠海の西養寺の住職であった灌園坊の流れを汲むものだというお話しがありました。
そこで今回の忠海再発見はこの灌園坊について触れてみたいと思います。
『豊田郡誌』によれば、灌園坊清溢は、
「寛政8(1796)年、賀茂郡仁方村に生まれ、名を犬覚という。幼より挿花を好み、12歳のとき、安芸郡三ノ瀬具願寺において大仏花一対を挿し、人を驚 かせたという。のち京都に出て僧叡に学び、その余暇には六角堂池坊に花道を学び頗る進歩した。 文化7(1810)年には草木集の免許を受け、文政2(1819)年には花方助役から花方に進む。文政6(1823)年に西養寺の住職となり、姓を武田と 称し、花名を灌園と号し、のち房号を特許され清溢と別号す。 ついで立生花床構格より紫紋白五條修字袈裟・紋紗直綴等を与えられ師坊の名代資格を与えられ、これより先、四国、 ─ 九州等を巡回し、流派を広めた。花道を教えるに際し、真宗の宗意安心を説き花道を発明したという。 花道のほか、嵯峨流の築庭、薮の内流の茶事等にも達し、また和歌も吟じたという。ここにおいて、その名四方に高く来遊者が後を絶たなかった。嘉永 7(1854)年、家元清磨に従って江戸にのぼり、大いに技名をあげた。 帰国後、江戸にて挿した百花式を書き公刊した。安政6(1859)年、病没し、遺骸は荼毘に付し二分して尾道西国寺と西養寺に葬り、それぞれに碑をたて た。息子覚了跡を継ぎ花道、庭園、茶道を教授し、二代目灌園坊を名乗る。」
とあります。
ところで、この灌園坊の流れを汲むという閑渕流の雑誌『閑渕』第20号(昭和44年9月15日発行)に「灌園坊の庭」として忠海の森保邸がつぎのとおり紹介されています。
「明治35年に建てられた純日本建築の森保邸には、明治中期の灌園坊が作庭した灌園坊の庭があります。立派な床の間のある座敷の表と裏にある庭には、手入 れの行き届いたびんろう樹、さつき、すいりゅう、そてつ、きりしまつつじ、かえで、くろまつ、あすなろ、もっこくなどがあり、庭石とみごとに調和していま した。 」