労働大学が発行している『月刊労働組合』の編集部から樋口健二写真・文『毒ガスの島』こぶしし書房の書評を依頼されたので、ここに紹介する。
安倍内閣の閣議決定を受けて集団的自衛権の行使を可能とする「戦争法案」が国会で審議されている渦中の6月30日に、樋口健二氏の写真と文からなる『増補新版・毒ガスの島』が刊行された。その帯には、「国家は『平和のために』戦争を起こし、犠牲となった人びとをたやすく切り捨てる。旧日本軍毒ガス製造工廠・大久野島。そこで働いた労働者・学徒の戦後を追う棄民たちの記録。」とある。
1970年。当時「四日市」公害を取材していた樋口氏に「喘息患者」の一人が、「わしらと同じ慢性気管支炎で苦しんでいる人たちが広島県にもたくさんおるそうだ」と話してくれたことがきっかけで、忠海病院を訪ねてみると、まだ戦争の名残りをとどめる憲兵隊の建物を改造した木造病棟で、廊下を歩くとガタピシときしむ音と、すきま風が病室に容赦なく吹き込んで、患者は寒々とした病室内でひどい咳と痰に悩まされていた。どの入院患者も重症な人たちばかりで、治るあてのない重苦しい雰囲気に病室はつつまれていた。四日市の患者もひどかったがさらにひどい現実が目の前にあった。想像を絶する毒ガス患者の実態、彼らの苦しみを25年間も放置してきた現実にただ呆然と立ちすくむのだった。こうして取材を重ねて12年間、1983年に刊行されたのが写真集『毒ガス島』だった。(「隠蔽された毒ガス棄民」P200~210)
それから32年を数える。写真集に登場した毒ガス後遺症棄民たちの多くは、すでにこの世にはいない。当時「わしらが死ねば闇から闇に葬られてしまう、せめて原爆並みの救済をしてくれてもいい」と怨念のように語られた声が、今もうめきとなって聞こえくる。現在、私が深く追求してやまない原発下請け労働者の放射線被曝の闇と同質の問題を抱えたまま、この日本に存在するのだ。戦争と原発被曝は莫大な負の遺産となって未来を暗く照射する。戦争法は決して国民を幸福にしない。今だったら遅くはない、すべての戦争法を破棄し、親善法を制定して欲しい。平和をおびやかす時代だけに「毒ガス棄民」の歴史をもう一度、認識していただきたいものである。この出版が歴史的意義を持つならば犠牲となった毒ガス患者たちの鎮魂となるでしょう。(「増補新版『毒ガスの島』刊行にあたって」P211~212)
この本には樋口健二氏の写真と文とともに、毒ガス患者の稲葉菊松氏の「『大東亜戦争』の爪痕-大久野島の実態」という文章と、毒ガス患者の治療にあたってこられた2人の医師の医学的知見も掲載されている。重信卓三氏の「毒ガス傷害に関する研究と現状」(P160~175)と行武正刀氏の「忠海病院、ただいま折り返し点」(P176~187)である。その行武正刀氏も2009年に亡くなられた。その年、大久野島で毒ガス製造に従事し、毒ガス資料館初代館長・毒ガス島歴史研究所代表として平和の語り部活動を続けて来た村上初一氏も亡くなられた。2012年8月15日に刊行された行武正刀編著『一人ひとりの大久野島』(ドメス出版)は、行武先生が毒ガス障害者のカルテの片隅に書き留めていた277名余りの体験や訴えの証言を遺志を継いだ娘が本にした。村上初一氏の遺志を継ぐ毒ガス島歴史研究所事務局長の山内正之氏が、2012年10月30日に『おおくのしま平和学習ガイドブック・その被害と加害から学ぶ』(「大久野島から平和と環境を考える会」)を刊行した。2冊とも是非とも読んで欲しい好著である。『毒ガスの島』とあわせて読んでいただければ、大久野島への理解が深まると思うので紹介した。