竹原書院図書館において小高旭之著『埼玉の浪士たち』(埼玉新聞社刊)という本を見つけた。その中に、清河八郎の罪をかぶって獄中にあった池田徳太郎の記述があるので紹介しよう。
国事犯の大赦と天下非常の士を糾合すべきだという上書は、獄中にあった池田徳太郎からも行われていた。池田は広島の医師の子で、清河八郎とは尊王攘夷党の 同志だった人である。広瀬淡窓や亀井革卿に学び、一時昌平黌に席を置いたことがあったといわれる。万延元年(1860)に江戸の麹町に塾を開いたが、翌年 五月の清河の無礼斬殺事件以来、小伝馬町の牢内にあった。清河が松平春嶽に建言したことを山岡鉄太郎から聞いた池田は、自身も伝を求めて上書したのであ る。このことについて庄内藩士であった股野時中は史談会の席上で次のように語っている。
牢番に能登の人で浅吉と云ふ者あり小知恵ある男と見へまして池田(徳太郎)と云ふ人は尋常の人で無い、罪があって牢屋の人となる人物で無いといふ事を見抜 きまして、何か御用があったならば自分相当の事を勤めませうと云ふて呉れました。それで池田は窃に別監に居る石坂と通ずる事が出来まして、段々相談致しま して、幕府の表高家中條中務大輔信禮さんに書面を持って行けと、浅吉に頼みました。中務大輔さんは京都公卿の樋口家の庶流である。(中略)此人平生より尊 王の志が厚かったもので、徳太郎等の送った書面は直ちに御本家に御廻しになって、終に近衛家の御手元に御出になったのでござります。
この池田徳太郎の建言の事実は、同志であった石坂周造も、後にその履歴のなかに記している。建言の大要は、「天下の事勢を審らかにし、速やかに非常の大赦 を行い、忠節の士を選んで京師の宿衛に当て、言語を洞開し、以て君主の聡明を妨害する弊を絶ち、廟堂の意見を取りまとめ、攘夷の議を実行なされよ」という ものであった。池田徳太郎の上書は、幕府高家中務大輔中條信禮から、その実兄の樋口観照入道に送られ、さらに大納言中山忠能を介して関白近衛忠煕に達し た。時宜を得た建言であることを認めた近衛関白は、直ちに政治総裁職松平春嶽に対し、その実行に関する沙汰を下したといわれる。
池田徳太郎の獄中からの建言に助力した牢番の浅吉は、後に中追太助と名を改めて浪士組に参加し、新徴組に編成替えされた後もそこに留まった。慶応四年(1868)の春には、家族を伴って庄内に下っている。
伊東成郎著『新選組と出会った人びと』の中に池田徳太郎のが無罪放免となったのち浪士組を組織するための関東遊説についての記述があるので紹介しよう。
池田はただちに浪士組の募集活動に参画することになる。そもそも池田は漢学者として著名な人物だった。明治29年に、雑誌『名家談叢』に連載された「新徴 組浪士の談」に、池田の詳しいプロフィールが紹介されている。……池田徳太郎は(中略)清河とは文学上の朋友で、武人の方ではないそうです。この池田は (中略)上州、野州辺の村々を渡りまして、(中略)四書五経の素読を、庄屋どのの子どもたちに授けたり(中略)して、数年の間そこここと村夫子を決めてい た男です。詩文もでき、人物も篤実で、どこの田舎でもかなりの人望があって、学者先生と尊敬された……
武闘派の多い清河の周辺の中で、池田は明らかに異なるタイプの人物だったらしい。浪士組は江戸の浪士ばかりを統合した集団ではなかった。のちに新選組創設 者の一人となる根岸友山は、尊攘派とも多数接触のある豪農でもあった。清河は浪士組にこうした特色ある富農層も加入させることを推進したらしく、池田徳太 郎はまさに適役として、関東周辺でいわばスカウト活動を展開した。