同じ場面を藤沢周平の『回天の門』は次のように描いている。
「『ほかにご異存は?』八郎がそういうと、石坂と村上が、するすると列を抜けて、横に出、刀をさげたまま、一同をにらみ回した。異様な空気がみなぎり、本 堂の中は、また静まり返った。その沈黙の中に八郎の、異存がなければ上書に諸君の署名血判を頂きたい、という声がひびきわたった。黙々と隊士たちが署名血 判を回しはじめたとき、一人の男が立ち上がって署名をこばんだ。池田徳太郎だった。『どうした、池田君』八郎は坐ったまま、鋭く池田を注視して言った。池 田は集まった隊士たちの後方の列の中に突っ立っていた。『おれは血判は捺さん』『それは聞いた。こっちに来てわけを話さんか』『いや』池田は首を振った。
池田が立っているところは、灯から遠くて、表情はよくわからなかった。
しかし池田が示した拒否の身振りは、はっきりと見えた。『おれはこのままで失礼する』『これっきりか』『そうだ』池田はそう言うと、列外に出た。そして、本堂を出ながら、ふりむきざまに、大きな声で言った。
『清河、こういうことをやるようでは君の首筋も細くなったなあ』池田のそのひと言で、本堂の中は無人のように静まりかえったが、八郎は眉ひとつ動かさな かった。石坂が後を追おうとするのを、八郎はとめた。『追うな』石坂を止めると、八郎は無表情に、一同署名をつづけられたいと言った。(中略)『池田は、 急にどうしたんだね』と石坂が言った。
すると、村上が首をかしげてぼそっと言った。『母親が病気だとか、どうとかとも言っておったな。京につく前の話だが』『それで里心がついて抜けるとでも言 うのか、ばかな』と石坂は言った。『そんなことじゃあるまい。奴は怒っていたぜ』池田は多分、今度のことではおれの策略が過ぎると思ったのだ、と八郎は 思っていた。そして、これだけの重大事を相談もしなかったのを、不快にも思ったのだ。だが打ち明けて、それで山岡や池田が賛成したかどうかわからないこと だ、と八郎は思った。
それは、綱渡りのように危い策謀で、その綱は八郎一人の決断で渡るしかなかったのである。そして綱はまだ半分しか渡ってなかった。」(藤沢周平『回天の門』P526~529)
司馬遼太郎の清河八郎に対する評価は、そのまま池田徳太郎に対する評価の浅さとなって描かれている。短編と長編の違いはあるとは言え、司馬の小説の中で は、池田の拒否についてはまったく触れられてないばかりか、石坂と共に隊士一同を威圧したとされており、他の場面でも、芸州脱藩池田徳太郎は清河の子分と して取り扱われている。(司馬遼太郎『幕末』P64)
一方藤沢周平は、別の箇所で「池田は麹町に自分の塾を開いていて、鋭い頭脳を持つ学者肌の男だったが、腹の大きいところがあった。」(藤沢周平『回天の門』P326)と評価している。
佐高信が指摘する司馬遼太郎と藤沢周平の「歴史と人間をどう読むか」
の違いは、このようなところに表れている。ちなみに柴田錬三郎も前述の場面を「浪士組始末」という小説の中に次のように描いている。
「上書が取締りたちの手へ戻って来て、池田徳太郎にまわった時、池田は黙って、隣りの村上俊五郎へ渡そうとした。『池田、何故連判せぬ?』八郎が、鋭く訊 ねた。池田は、陰鬱な眼眸を、宙へ送って、『わしは、帰国する』ぼそりと云った。『この場におよんで、なにをばかなことを云う!池田、おぬし正気か!』石 坂周造が、片膝を立てて、つめ寄った。(中略)池田は、石坂の単純さを、幸せだと思った。今の今まで、八郎が斯様な上書を草していようとは、全く気がつか なかったのである。
何故生死をともに誓った自分か石坂に打ち明けようとしなかったのか。自分たちが一年余も獄に呻吟したのは、清河八郎の殺人事件に連座したからではなかった か。なんという、親友の情誼をふみにじる傲慢無礼のしわざであろう。浪士募集の端緒をひらく功を成したのは、誰だ。獄にあった自分と石坂ではないか。池田 は、八郎が読みあげる間、こらえがたい憤怒をこみあげさせていたのである。ひとつには、池田は、あくまで、幕府に倚って大成を期して進むつもりであった。 到着早々、かくも急激な威圧の手段をとれば、事の成る前に、公儀の暗殺の的になるのは、火を見るよりあきらかではないか、と理性が働いた。畢竟この男とは 縁がない、と咄嗟に心を決したのであった。池田は、八郎の表情に、一脈の殺気を読んだ。『君は、僕が読むのを一語も洩らさずきいたか?』池田は頷いた。不 気味な、息づまるような一瞬であった。ふっと、八郎の顔がゆるんだ。『帰りたまえ、去る者は追わぬ』池田は、無言で一酬すると立ち上がった。こうして、連 判には、満腔の不平を抱いた只一人が除かれたのみだった。」(柴田錬三郎『もののふ』P223~225)