近世の忠海については、まだいくらか史料が残っているが、中世の忠海についての史料はほとんど見られない。そこで平凡社発行の『広島県の地名』の忠海村の項を引いてみると、
「(忠海は)中世は浦郷に属し、沼田小早川宣平の七男氏実はこの地域に拠り浦氏を称した。 継目安堵御判礼銭以下支配状写(小早川文書)の文明19(1487)年分に、忠海の問丸と思われる『忠海二郎右衛門』の名が見え、忠海が瀬戸内海水運の要津であったことがわかる。」
という記述がある。
このことについて、佐々木銀弥氏は
「14世紀後半から15世紀にかけて、小早川一族の商品流通に対する態度は、きわめて積極的なものとなっていった。その 理由の第一は小早川一族が将軍家への奉公、在京勤番を通じて京都の商品流通に接触し、そのための銭貨が必要となったこと、第二に14世紀後半に一族の所領 が塩・海産物の産地に拡大し、塩の市場である畿内との交易(運送・販売)が活発になったこと、第三に瀬戸内海水運を制圧したことをあげ、さらにこのような 条件を背景に朝鮮との貿易まで行っている。
このような畿内や朝鮮との隔地間取引を推進してゆくには、小早川一族は少なくとも有力な商業・高利貸資本との結合と、領内分業の再編成が必要であった。
1487(文明19)年、小早川惣領家が将軍より相続を安堵された際、将軍家に出す礼銭を庶子家に割り当てた支配状によれば、小早川氏は堺で為替をとりくみ、入質によって銭貨60貫文を調達し、さらに兵庫・尾道・忠海といった重要港湾でいろいろの名目で礼銭に必要な銭貨を調達している(『小早川文書』2、 証文220号)。
これは、小早川一族の日常・臨時の資金調達や取引において、港湾の商業・高利貸資本がきわめて重要な役割を担っていたことを推測せしめる。」(『岩波講座日本歴史8中世4』佐々木銀弥「中世都市と商品流通」)
佐々木氏は別の本のなかで、「兵庫では一族の生口氏より、尾道では万代方よりそれぞれ礼銭に充てる銭貨を受取り、忠海では二郎右衛門なる者より借入を行っている。」(佐々木銀弥『荘園の商業』)と記述している。
この記述は、中世における忠海が港湾として、また商業拠点として重要な役割を果たし、二郎右衛門は、小早川氏に金を貸すほどの財力をもっていたことを示している。