広島シャレオで行われている古本市で広島市郷土資料館が2015年1月14日に発行した『廣島缶詰物語』という特別展の図録を手に入れた。この本の中にアヲハタの創業者廿日出要之進と中島董一郎、加島正人について詳しく記載されているので抜粋して紹介しよう。
広島県でみかんの缶詰に手をつけたのは豊田郡大長村出身の加島正人でした。加島は果樹栽培に従事しながら農産加工品に目をつけ、当初は干桃の製造研究を行います。後に妻のとみ子から米国産の果実缶詰の話を聞き、農商務省農事試験場園芸部で農産缶詰の製造技術を学びました。広島に帰った加島は大正12(1923)年から果実の缶詰加工の研究を始め、同14(1925)年にマーマレードと桃の缶詰の試製を行い、国産品でこれに優るものはないと好評を得ています。同15(1926)年には、豊田郡役所から工業奨励金の希望申請をしています。その研究細目は「オレンジマーマレード、桃缶詰及びその他一般果実・蔬菜の加工、貯蔵法の改善」となっています。この頃、加島は、広島工業試験場技師中原喜三郎から、アルカリ剥皮法によるみかんじょう嚢の除去について講習を受けています。そして、アルカリ剥皮法によるみかん缶詰を遂に製品化します。
加島の起業にあたっては、同じ大長村の廿日出国三郎からの支援が大きなものでした。国三郎は大正末期から大長村のみかんを利用した缶詰製造を志し、村に埋立地を造成して、息子の要之進に缶詰工場を開設させる夢を描いていました。そのため、加島の研究に目を留め、援助をしていたようで、みかん缶詰製品化成功した昭和3(1928)年に130~140坪、翌年、軌道に乗り始めた時期に450坪の工場用地を貸与しています。
昭和3(1928)年、加島のみかん缶詰は、廿日出要之進が勤務していた東京の中島商店(代表者 中島董一郎)により、見本として英国ロンドン、オーストラリア、米国、大連へ計17箱が送られます。この際に同郷の要之進の尽力があり、翌4(1929)年には中島商店を通し、ロンドンのセール商会に140箱の輸出がなされました。以降、輸出が増加し、加島の工場は右肩上がりに成長を遂げ、昭和7(1932)年は、みかん缶詰4000箱を製造し、翌8(1933)年には25000箱と急増しています。加島の工場は順調な成長を遂げましたが、第二次世界大戦後の物資不足の中で工場は衰退し、昭和24(1949)年からは廃業状態となります。
(広島市郷土資料館『廣島缶詰物語』P62~64)