阪田泰正氏は、昭和55年4月15日発行の『広島県医師会速報』(第1000号)付録に「忠海物語」という一文を寄せている。この文章を読んでみると忠海の歴史と忠海における阪田家の歴史が実に要領よくまとめられているので、ここに紹介しよう。
私の郷里は竹原市忠海町である。実際そこで生活したのは、父の代までであるが、菩提寺があり、親戚の家もあるのだから、まあ郷里と云ってもいいであろう。
忠海発展の歴史は室町中期の小早川隆景の家臣、浦宗勝の忠海城下町経営からなり、その基礎は鎌倉期にきずかれたものである。
忠海が新興港湾都市として立派に花を咲かせたのは寛文三年(1663)浅野左衛門卿が三次支藩五万石に分封され、三次藩の蔵米移出港として舟入掘を築調し、蔵屋敷、御船蔵を設置し、村の発展につとめてからで、この舟入掘の守護神として三次の岩上にあった弁財天を勧請し、築地社を建立したといわれる。さらに正徳元年(1711)沖手築止め工事がなされ、塩浜が出来、町家も増え、芝居小路では歌舞伎が行われ、中町(胡町とも云う)は商店街として繁盛し、新町(両替町とも云う)には両替店が出来、参勤交代の諸大名や家中の者たちの海駅として使用され、朝鮮人来聘の時も、阿蘭陀人・琉球人往返の際は汐繋の場所となり、松尾芭蕉の弟子の支考の「ふくろう日記」(元禄十一年)、安井嘉兵衛の「西国船路道中記」(元禄十五年)、古川辰の「津々はたち」(天明六年)、十返舎一九の「宮島詣膝栗毛」等の他、九州平戸松浦藩参勤交代の寄港地を定めた「泊り付」(文政十二年)や対馬宗藩主の「道中日記」に忠海の名が見える。
私の先祖の者がいつ頃から忠海に住みついたか明らかではないが、墓誌に「初代、紺屋伝蔵、安芸国忠海住人、享和三年亥十一月二十三日歿、享年六十六歳」とあるところをみると、二四〇年前には忠海に住んでいたのかも知れない。文政二年「国郡志御編集下しらべ書出帖」の「町内小名」の項に「阪田屋小路」というのがある。ここは先祖の家のあった中町にある小路である。
阪田秋夫氏の「忠海記」によると、「四代、阪田林輔、幼にして志を立てて安芸国忠海より大阪に行き、当時、幕府の御用銅吹所熊野屋(前島)彦太郎の認むるところとなり、その副支配人を勤む。文久元年(1861)十月、故郷を忘れることが出来ず、田園がまさになくならんとするのを心配して余生を忠海で安楽に暮さんと主家同僚に惜しまれながら、妻と子供とともに故郷に錦を飾り質商を営んだが、某家に貸した退職金並びに貯金二千両を返済してもらえず、そのため林輔は生計の意欲を失い隠居す。妻キミはこれを憂い、若いときより習っていた遊芸、華道、縫技を活用して呉服店を開業す。ところがその真心と教養が顧客を吸収し、家業は年を追って繁盛したとある。当時の事がしのばれて面白い。 五代慶三郎に関しては、忠海商工会発行の『忠海案内』(昭和十年)に幕末より明治初年に亘る忠海の主なる商家の中に慶三郎の名をあげている。
慶三郎には、六男一女があった。長男良吉は芸備銀行忠海支店(大正九年十月一日開業)幹部になっていたが、連帯保証人として多額の債務に連判したため、後年、家屋敷を手放さざるを得ない窮状に陥り、昭和八年四月一日より京都帝国大学医学部で研究中の長男良一を訪ねたが、同月二十九日死亡した。良一は昭和十一年一月三十日医学博士の学位を受け、同年十二月京都七条診療所で勤務、同十三年応召、終戦後、下関鉄道病院長として勤務。同三十一年七月四日歿す。
次男寛二は明治三十一年十月三十日大阪高等医学校を卒業、同年十二月一日、一年志願で第四師団歩兵第三七連隊に入隊。同三十二年十二月、予備校に編入され、同年同月二日より神戸県立病院外科に勤務。同三十三年六月二十七日、北清事変に陸軍三等軍医として応召、同三十四年七月七月二十六日召集解除、同年忠海中町にて開業し、同三十五年八月一日、豊田郡佐江崎村能地でコレラが流行した時には、百二十名の患者を抱えて、一カ月間も献身的治療を行い、数千人の人に対し予防注射を行った。ついで同三十五年十月十三日、佐江崎村で開業す。
五男・泰は私の父である。父は大正元年十月三十一日、大阪高等医学校を卒業後、兄寛二が開業している阪田病院を暫く手伝ってから同四年三津口村で開業。その後間もなく鷺浦島向田で開業し、次いで同十二年二月二十八日三津町で開業した。
昭和七年七月十日、三呉線鉄道が開通した。鉄道の開通は地域に大きな刺激を与え、呉、三原の発展が地域に直接影響するようになり、昭和初期になると竹原が忠海よりも沿岸海運の中心港に発展してきた。(広島県史)。昭和三十三年十一月三日、忠海町は竹原町と合併、竹原市を設置。同四十三年九月十五日、都市計画に基づく街づくりのため船入掘は埋め立てられて、そのあとに同四十八年三月三十一日に内堀児童公園が完成した。
このようにして、私の郷里忠海は年と共に近代化へとその姿を変貌し、私の幼少年時代の思い出は次々と消されて行く。家の近くにあった等身大の熊の銅像は昭和十八年八月の金属回収で供出されてしまっているし、阪田家住宅には他人が住んでいて、廃家のように静かである。阪田という人が、かつて忠海にいたことさえ知っている人は極めて少ない。