昭和58年(1983年)から竹原電報電話局に勤務した田中節男さんが、竹原の歴史について書いた『竹原歴史散策』という本があります。
その中に、忠海の石風呂の起源が紹介されていますのでここに転載してみましょう。
古い文書をあたって見ると、文政2年(1819年)に忠海町が『国郡誌』編集のため差し出した『下調べ書出帳』にわずか数行だが『石風呂』の記述がある。おそらくその頃からすでに焚き続けられて来たのだろうが、どうやら場所はここ(現在の場所)ではなかったらしい。
その『書出帳』によれば、『「石風呂」 地名蕪崎ト云。此ノ所、昔、極楽寺境内ノ穴寺ニテ、洞ノ奥、石像ノ阿弥陀アリテ、人住居セシ洞ナリトカヤ、廃寺、長々零落シテアリケルヲ石風呂ニ調フ、 (脇屋三郎発起、今、石ノ阿弥陀ハ外ノ洞ニ遷ス)仍之、新ニ掘調シト違ヒ功能疾気ヲ去ル事宜シ云』とあり、また同様の『廃寺』の項に、『極楽寺。昔、真言 地ニテ穴寺モ此ノ寺ノ境内ニテ有リシトカヤ、破壊ノ由来、年暦等不知、今、穴寺ハ石風呂ニ相成ル』とある。
つまり、文政のころ、蕪崎に、当時すでに廃寺となっていた極楽寺という寺があり、その境内の荒れるにまかせた穴寺に、阿弥陀如来が祀ってあった。それを見かねた脇屋幾三郎という人が、阿弥陀如来を他に遷し、その後を『石風呂』に仕立てたのがはじまりのようである。
おそらく、はじめは『新ニ掘調シ』洞穴とは違い、旧家主の阿弥陀仏の深い慈悲によって、ことのほか病が癒えるものと信じられ、住民の信仰を集めていたのだ ろうか。それが、いつのころか、現代風のサウナ風呂の効能が知れわたるにつれ、信仰を離れ、ヘルス産業の一環として機能分離して、今日まで焚き続けられて いるのであろう。
戦前までは、同町の冠崎の石風呂治助が5代にわたって焚き続けて来られ、戦後になって現在のの『岩の屋』の主人、稲村喬司氏の父君が営業権を引き継ぎ、現 在地へ移されたという。石風呂氏の家には、文政5年の『石風呂濫觴記(起源記)』と当時の盛況ぶりを伝える古文書が残っている。
後日、6代目に当る石風呂氏から拝借し、アイロンで伸ばして解読してみると『濫觴記』の方は、起源記というより、当時の代官、柴田五三衛門が当時巡察の 際、すでに焚き続けていた脇屋治助へ与えた営業許可証的な文面である。とすると石風呂の濫觴はもっと古い時代のことのように思われる。