『広島県の百年』は近代の海上交通の整備について次のように述べている。「鉄道の発達よりやや早く、海上交通も整備されつつあった。明治10年ころは瀬 戸内海における定期貨客船の濫立と過当競争で、各会社・船主の経営はゆきづまりの状態にあった。そこで各船主間に一大企業合同計画がもちあがり、資本金 1500万円の大阪商船会社を設立することとなった。広島の広陵会社などもこれに加わった。成立した大阪商船は広島に支店、宇品にその出張所をおき、また 鞆・尾道・竹原には代理店を設けた。そして、これらの港と阪神・関門・四国各港とを結ぶ航路が開かれた。また、明治20年ころから広島汽船会社・、広島早 速社・尼崎汽船大阪共同組などが県内各港と四国・内海島嶼をむすび、三菱汽船会社などが日本海航路に進出して内海と山陰・北陸・北海道とを連絡した。」 (『広島県の百年』山川出版社P122)やがて大正時代に入ると内海交通も大阪商船などによって尾道・呉・宇品などを寄港地とする大阪・門司間や広島・別 府間に汽船が就航するとともに、鞆・尾道・三原・竹原・呉・宇品などと高浜・今治・多度津など四国側をむすぶ航路に多数の汽船が就航した。また、これらの 港と島嶼をむすぶ小航路も活発に運航されるようになっていった。」(前掲書P176)
今治市の書店で山崎善啓著『瀬戸内近代海運草創史』(創風社出版)という本を見つけた。竹原貿易港20周年記念行事実行委員会が発刊した『竹原市港湾・産業発達史年表』とあわせて近代の忠海港の歩みをたどってみよう。
忠海に豊田郡役所が設置された1878年(明治11年)に大崎・東野からの渡船が就航している。1881年(明治14年)には忠海に尾道水上署忠海分署 が設置され、1882年(明治15年)には尼崎汽船の中国航路汽船が忠海港に寄港するようになっている。1894年(明治27年)には大久野島に灯台が設 置された。忠海に芸予砲兵大隊が置かれた1899年(明治32年)に川下埋め立て工事が竣工し、埠頭が築かれている。1903年(明治36年)石崎汽船は 大阪・東京への鉄道連絡便として三津浜・尾道間に定期航路を開いた。その寄港地は高浜、北条、菊間、御手洗、木江、宮浦、メバル崎、竹原、忠海、である。
明治末期に木江汽船が尾道~波止浜線を運航している。その寄港地は糸崎、忠海、竹原、宮浦、木江、明石方、御手洗、岡村である。1912年(明治45年) 大阪商船株式会社の大阪山陽線の午後便(乙便=普通便)が忠海港に寄港するようになった(寄港地は神戸、坂手、高松、多度津、鞆、尾道、糸崎、忠海、竹 原、阿賀、音戸、鍋、吉浦、宇品、宮島、岩国、久賀、柳井、室津、室積、下松、三田尻、新川、門司)。翌1913年(大正2年)宇品尾道往復汽船(寄港地 は吉浦、鍋、音戸、阿賀、長浜、仁方、川尻、三津口、三津、大西、竹原、忠海、瀬戸田、糸崎)、1914年(大正3年)からは共算組合大崎巡航社が豊島~ 尾道間の巡航船(寄港地は久比、大西、矢弓、古江、竹原、忠海、能地、糸崎)、今治尾道往復汽船(寄港地は波止浜、岡村、御手洗、大長、明石、沖浦、木 江、メバル崎、竹原、忠海、能地、瀬戸田、糸崎)が開設され、1915年(大正4年)大阪商船株式会社の大阪別府線が航路を延長して山陽経過大阪別府線と 改称され(寄港地は神戸、神島、鞆、常石、尾道、糸崎、忠海、竹原、阿賀、音戸、吉浦、宇品、宮島、柳井、鶴川、大分)、それぞれ忠海港に寄港するように なっている。
近代瀬戸内海運草創期の航路を2冊の本から紹介したが、瀬戸内ど真ん中の港町の盛衰を感じさせる記録である。