山と渓谷社が最近『瀬戸内こころの旅路』という旅の紀行&エッセイ集を発刊した。その中で作家の見延典子が忠海と頼山陽、平田玉蘊について触れている。 「山陽に門外自由の公許が下ったのは、五年後であった。といってもしばらくは監視下にあり、一人での外出などは許されない。そんな山陽が一つの恋を経験す る。竹原に法事で行った際、親族らと近くの海岸・床の浦(忠海)で舟遊びを楽しんだ。そこへ尾道から頼家を訪ねてきていた平田玉蘊・玉葆姉妹が同舟したの である。姉の玉蘊は二十一歳の女性画家。二十八歳の山陽とはお互いに惹かれ合うものがあり、周囲からの勧めもあって、舟遊びの様子を玉蘊が絵に描き、山陽 が文に書き、その文は『竹原舟遊記』として今も残っている。その後山陽は玉蘊に逢いに尾道を訪ね、また玉蘊も母と共に京都に居を移した山陽を訪ねたりして いるが、いかなる事情からか、二人の恋は実らなかった。」(見延典子「維新の精神的支柱頼山陽を追って」P248~249) この竹原舟遊については、池田明子の『頼山陽と平田玉蘊』に詳しく書かれているので抜粋してみよう。
「 舟、床の浦に至る。つなぎて上がる。海山のながめ甚だ勝る。
今も、床の浦から海上の眺めは当時と大差ない。大久野島、小久野島が優しい曲線を描いて連なる。海は緑の濃淡。白い砂がすけて見えるほどの透明な水が、軽やかな波の音をたてて、悠久の往き来を繰り返す。
ただ護岸はかつての白砂青松とは異なり、無愛想なコンクリート。それでも床の浦神社の境内は雁木造りになっていて、砂浜へ下りることができる。
八段の階段のうち、上から三段までに土台をつくって、尾道の石工がつくったという鳥居がたつ。社殿は県天然記念物のウバメガシのうっそうとした樹叢に囲まれ、鎮もっている。
ある人曰く、此れ(床の浦からの眺め)より勝るもの有り。黒瀑山 という。
黒瀑山は黒滝山のこと。標高二六六メートル。JR呉線忠海駅より徒歩四十分。奇岩屹立し、眺望は素晴らしく、芸予諸島から遠く四国連山を一望できる。山頂 の観音堂は、天平年間(七百三十年頃)僧行基の創建と伝えられる。 瀬戸内海の多島美をもっとも堪能できるのは、海上より小高い所からの眺めである。一行はさらなる眺望を求めて登山することになった。多分、玉蘊姉妹は床の 浦神社の境内に座って、海を眺めながら待ったことだろう。
いただきに至りて望む。さきほどの層見畳出するは碁布の如きなり。
家翁(春水)、仲翁(春風)筆をとりて図をなす。延望久しくして下る。舟に至ればすなわち日すでに入る。
連なり合っていた島々を黒瀑山から見下ろせば、瀬戸の海に散らばっている碁石のようだ。春水と春風は、早速矢立てから筆をとりだして、海に浮かぶ瀬戸の島々を描いた。
舟に帰ると、つるべ落としの秋の日は残照を残して沈んでいった。
山紫水白。継ぐに蒼然の色を以てす。
山は紫、水は白く、刻一刻、暮色を増していく。
のちに山陽は漢藉の『山紫』と『水明』をひとつにして『山紫水明』の語をつくったが、その原型がこの『山紫水白』ではないか。夕暮れの海や川の水は、ほん のひととき淡い闇のなかで、白く明るく浮き出て見える。山影は空よりやや深みを帯びた青紫。空の色も水の色も、瞬時うつろいゆく夕暮れのひととき。瀬戸内 海のもっとも美しいときである。(中略)
遊びに後るること一日、玉蘊まさに去らんとす。よりて附するに、作るところの図をもってす。さらにこれを画かしむ。まさにもっ て他日の情を慰めんとするなり。
舟遊びの翌日、玉蘊が別れの挨拶に舟遊の絵をかいて持ってきた。春風たちは、玉蘊にさらにもう一枚、描かせた。そして山陽に命じて、この舟遊記を書かせたのである。」(池田明子『頼山陽と平田玉蘊』P94~99)
斜体の部分は頼山陽の『竹原舟遊記』の読み下し文で、明朝の部分が池田明子の解説であるが、当時の宮床海岸や黒滝山の風景を彷彿させる文章で、実に興味深い。
忠海の風景の美しさは平田玉蘊の画や頼山陽の詩に見られるようにこのようにしてしばしば芸術に昇華するのである。
この本によると、『頼山陽全書』文集の「竹原舟遊記」の末尾には、一行あけて[竹原床浦図]「丁卯秋日。床浦舟遊。写所見。玉蘊」とあり、「注」には「装成セラレタル詩文画巻、岡山・国富友次郎の所蔵に係ル」とあるが残念ながら焼失したらしい。