マイナビ出版が2016年9月15日に刊行した斎藤潤著『瀬戸内海島旅入門』にも「ウサギ人気に占領された毒ガスの島」と題して大久野島が紹介されている。
昨年のゴールデンウィーク、大久野島に渡るため忠海駅で下車し港へ向かって驚いた。呉線の踏切りを渡ったあたりから、船着場へ長い行列ができているではないか。
並んでいるうちに雨が降ってきたが、脱落者はいなかった。大久野島のウサギが注目されはじめたと知っていたが、油断していた。乗船できたのは、港到着1時間後だった。大久野島の桟橋周辺は、下船乗船にバスを待つ人まで加わって大混乱。大半の人は休暇村方面へ向かうので、発電所跡に立ち寄ってから、島を一周することにした。発電所付近にもウサギに餌を与える人が出没していた。
坂道をだらだら登り、中部砲台跡へ向かう。日露戦争前にバルチック艦隊の来寇に備えて来島海峡の小島と対で建築された芸予要塞の遺構だ。しかし、中部砲台の前に山頂展望台にたどりついてしまった。好天なら360度の眺望を楽しめるが、雨が時々落ちてくる。展望台に近い木陰のベンチで弁当を食べていると、欧米人と中国人のグループが、野菜のたっぷり入った袋とペットフードをもって現れ、木陰にいたウサギに餌をやりはじめた。
中部砲台跡は、レンガ積も漆喰や御影石、コンクリートも保存状態がいい。続いて、北部砲台跡へ。途中から、直登ならぬ直下降の急階段になった。それでも、ところどころにキャベツが落ちていた。以前は入れた北部砲台の内部だが、進入できないよう頑丈な柵ができていた。一周道路に出ると、ウサギの餌を手にした人がたくさん歩いていたり、しゃがんだり、素直に寄ってくるウサギもいれば、人が近づくと逃げ腰になるものもいる。
大久野島には秘密裡に毒ガス工場が造られた。陸軍の新工場建設の話が持ち上がると、ひどい不況の時代に倒産の心配がない軍需工場が欲しいと各地で誘致合戦がおきた。1927年、見事に栄冠を獲得したのは、大久野島を有する忠海町だった。どんな工場が知らない人たちは、提灯行列で歓迎し祝ったという。
1929年5月、東京第二陸軍造兵厰火工厰忠海兵器製造所が完成。国際条約違反の毒ガス生産がはじまった。工場の規模がどこまで膨らむか、誰も予想していなかったようだが、従業員は1933年に200人、1937年には1000人を超え、最盛期には5000人に達したという。当時、大久野島は軍の機密により、地図から消されてしまう。1940年には、工場内に陸軍造兵厰技能者養成所を設け、高等小学校の優秀な卒業生たちを採用しはじめる。原料不足で毒物の製造が下火になった翌年、敗戦を迎えた。その時、3000トン以上の毒ガスが残されていた。そして戦後の毒ガス処理にあたって多くの被爆者を出す。
手づくり火炎放射器で毒ガスを焼き払った痕跡である真っ黒にすすけた毒ガス貯蔵庫跡を観察していると、あとからやってきた若者3人組が立ち止まった。「ウサギの島っていうけど、こっちの方が凄いんじゃね」「毒ガスだってよっ、恐ろしいよな」「戦争は、嫌だよな」大久野島にウサギを求めてやってきても、戦争と平和について考えるきっかけになるなら、いいかもしれない。ウサギ狂想曲の中に希望がほの見えた一瞬だった。複雑な思いがしたのは、小さな毒ガス貯蔵庫前で、幼子たちが無邪気にウサギと戯れていたこと。 驚いたことに、毒ガス資料館の前には入館券を買うちょっとした行列ができていた。小さな展示室は、人でいっぱい。いつも人はいなかったのに。館長に聞くと、毒ガス資料館の入館者も最近になって激増しているという。これも偏にウサギ効果だろう。安心したのは、見学者みんな真剣な表情だったこと。大久野島の毒ガスが、日本軍によって遺棄された中国大陸で、現在も時々被害者を出していることも、明記されている。毒ガスは歴史の彼方に消え去ったわけでなく、現在進行中の生々しい存在なのだ。
ウサギに導かれて大久野島へ来て、そんな現実に触れてくれたと思えば、大久野島の毒ガス工場や戦後処理で大量に発生した毒ガス被爆者たちも、少しは報われるかもしれない。(斎藤潤著『瀬戸内海島旅入門』P268~272)