忠海の宮床祭に三次の鵜飼いを呼ぼうという取り組みが行われた。もともと忠海は浅野長治の時代に三次藩の港として参勤交代をはじめとする江戸との交易の拠点の役割を果たしていた。その三次と忠海を結んだのが三次街道である。
2015年7月20日に吉川弘文館の日本歴史叢書として土井作治著『広島藩』が発刊された。その中から三次藩についての記述を抜粋してみよう。
「寛永9年(1632)10月に広島藩を襲封した2代藩主光晟にとって、藩政が大きく動くきっかけとなったのは、三次藩の分知とそれに続く領内地詰(内検地)であった。この方策を無難にのりきり、その上にひろく諸策を実施して藩体制の確立をなしとげたのであった。……広島藩の寛永検地は、幕府に届けなかったことから地詰とよんだが、寛永15年(1638)蔵入地を、正保3年(1646)に知行地をと2回に分けて実施された。この地詰は、三次分封に伴う領知高の減少を補う者で、本藩の格式を保持する意図があったといわれる。……また、慶安2年(1649)には浦辺蔵奉行をおき、三原をはじめ尾道・木原・竹原・三津の5カ所に米蔵をもうけて新しい年貢納所方式をととのえ大阪登せ米の確保と積出しを格段に推進することにした。また、幕府の政策、なかんずく参勤交代の制度化、島原の出兵、巡見使の派遣などを契機として広島藩は、完全に幕藩制の一翼を担って、藩社会共通の制度化が整えられる面もあった。」(P84~85)
「三次藩の所領は、備後国内の三次・恵蘇両郡66カ村と御調郡吉和・仁野村、世羅郡加茂村の69カ村4万7150石、安芸国佐西郡草津村、豊田郡忠海村、高田郡上甲立村の3カ村2850石、合わせて5万石であった(『鳳源君御伝記』)。このうち草津・忠海・吉和の3カ村は、瀬戸内海にのぞむ水主浦であり、大坂登せ米など流通経済に便宜をはかる措置であったと思われる。……郡町・財政に関しては、郡代(郡奉行)のもと郡方帖元・毛見奉行・村廻りなど、三次町に町奉行、寺社に寺社奉行をおいて支配にあたらせた。財政担当は勘定奉行・勘定所帖元のもと、米蔵奉行・銀蔵奉行・鉄奉行(山奉行)・材木奉行・紙蔵奉行・荒物蔵奉行・忠海奉行(納所奉行)などをおいて、年貢・諸上納物・特産物の管理収納にあたらせた。」(P101~104)
「三次藩は本拠の三次町が、交通の要衝ではあるが、海から隔たっているために、飛領の豊田郡忠海と佐西郡草津、御調郡吉和など海港を活用する政策を推進した。寛永10年(1633)7月、長治は本藩からゆずられた植木助六を船奉行に任命して忠海に居住させ、三次から忠海に出る道路を整備して年貢米や鉄・紙など特産物の海上輸送にあたらせた。また、翌11年(1634)4月、本藩から広島城下西堂橋筋の蔵屋敷をかりうけ、草津港とともに他国商事に活用することによって三次町の地理的不便を補うところがあった。(P105~106)
最近、広島の古本屋で渡辺健著『菩提寺の庭 芸州と忠臣蔵』という本を手に入れた。
その本の中に三次藩浅野長治、長澄の江戸参府についての記述があるので紹介しよう。
「寛文9年(1669)浅野長治56歳の5月、本家嫡子綱晟(33歳)と江戸を出発、同道で帰国の途につき大坂よりは船路、忠海にて綱晟と別れ上陸、本郷→河内→豊栄→甲立を経て三次に帰着。この年始め頃、三次で女児誕生、『阿久利』と名付けられ、父の帰国を待っている。―やがて同年の10月、綱晟との約束通り広島城を訪問(綱晟自慢の牛田山荘にも立ち寄る)。当時、所謂参勤交代は2年毎確実に行われており、概ね5月初旬江戸を離れ帰国、翌年3~4月頃国許を出発して江戸に向かう。即ち、この度は寛文10年(1670)春4月三次を出発、綱晟と申し合わせ江戸参府も同道。」(P50)
「延宝元年(1673)5月中旬、国許御暇を許され江戸を出発、25日に忠海着、途中世羅郡津田で宿泊したがいたるところ大洪水、やっとのこと28日三次着―(これが長治最後のお国入りとなる)。」(P51)「延宝3年(1675)正月15日夜より耳痛く風邪気味と床に臥したが、17日には熱高く意識も薄い重患。17歳になったばかりの本家綱長が来邸、付きっきりで長治の容態を見守ったが、綱長にとってはかけがえのない伯祖父である。正月19日(発病して5日後)アッという間に終焉を迎える。三次分家藩主となって40年間、領地治世に励み、本家光晟、綱晟、綱長の三代を献身的に支え、又、自昌院のよき相談相手と信頼された生涯であった。長治の遺命『三次の街を一望できる比熊山に葬れ』により遺骸は25日江戸を出発、綱長は品川まで柩を見送り、更に青松院僧侶を始め使者を付き添わせた。家臣に護られた柩は大坂・忠海を経て2月14日三次鳳源寺に途中、15日葬儀。」(P53)
元禄3年(1690)から享保3年(1718)までの浅野土佐守長澄の三次帰国と江戸参府の記録が掲載されている。「江戸―三次の所要日数は20日~23日間くらいで内訳は次の通り。江戸―大坂=主として東海道(時には木曽路を経由)約15日間。大坂―忠海=船路(陸路の記録は見当たらない)発着時刻の記録がなく、正確なことは判らないが海路約250㎞、船速度1時間5㎞として50時間=3日間。忠海―三次=中間地点(世羅郡)で1泊=2日間」(P85)