藤井昭著『安芸の伝説』(昭和51年発行・第一法規)という本の中に忠海近辺の伝説がたくさん掲載されているので紹介しよう。
◆忠海の石風呂
竹原市忠海町蕪崎にあった。むかし、ここは極楽寺境内の穴寺で、洞の奥に石の阿弥陀像があった。しかし、寺が廃され、長い間零落していた。そこで石阿弥陀を外に移し、中を石風呂に整えたものであって、新たに作ったものと違い、効能が著しかったという。(『安芸の伝説』P65)
◆西養寺の本尊阿弥陀如来
この像は聖徳太子の作といい、むかしは越中国(富山県)の船主村田重太郎の崇敬するところであったが、芸州豊田郡忠海の西養寺に仏跡をとどめんと夢想が再三あるので、ついに重太郎も船で忠海浦まで運び、西養寺におさめ帰路についた。
のち、海賊がこの霊像の話を伝え聞き、盗み出して、大崎島から御手洗浦へと運んでいたところから、毎夜、深更になると、「われを、西養寺へ返せ」と光明を放たれる、海賊は驚き、その罪を悔いて返したという。
また、像のいたんだ(壊れた)ところを補修しようとして、仏師に見せたところ、「この尊像は、わが手の触るるものではない」といって辞したという。(前掲書P131~132)
◆石地蔵
竹原市忠海町二窓浦の後ろにあり、「いしんぞう」と呼ばれている。むかし、このあたりが海であったころ、平清盛公がこの岩に船を寄せられ、岩の上に地蔵の絵を書き、彫刻されたものという。
また弘法大師の御作ともいうが、いずれにしても霊験あらたかな尊像である。(前掲書P139)
◆能地の浮きダイ
三原市幸崎町能地の浮幣社(うっぺいしゃ)の前の海では、毎年春先の二カ月、タイが波間に浮かんで流れるので、漁師は労せずしてとることができる。
これは、むかし神功皇后がこの地へ来られた時に、御船のほとりにタイが多く集まったので、皇后は酒をふるまわれた。その酒に酔って浮いたタイを、海人がとって献上したことに由来するという。(前掲書P27)
◆幸崎・能地
神功皇后がこの地に上陸された時に、景色がよく、見晴らしがすばらしいために、何日も足を止められた。「さきはう崎 能き地なり」とおおせられたことから「幸崎」「能地」の地名がおこったという。(前掲書P91)
◆龍泉寺の鐘
むかし、商いのために唐へ渡った人が帰りの船の中、竹原市忠海の沖合いで大風にあった。この商人常日ごろから観音を信仰していたので、難にのぞんでひたすら祈願したところ、龍泉寺(三原市小泉町)より光明さし出て船を照らした。するとたちまちに海上は静まった。商人はたずさえていた馬の角と鐘を、お礼として龍泉寺へ奉納したのであった。
のち、鐘の音を聞いた海賊が寺へやって来て盗み出そうとしたが、重くて動かなかった。そこで竜頭(りゅうず)と疣(いぼ)をもぎとって船へ帰って行ったが、にわかに烈風となったので、盗賊は竜頭を海中へ投げ捨て、疣三個のみをたずさえて帰った。しかし、災害が相次いでおこので、とうとう疣を龍泉寺に持参しておさめたという。(前掲書P153)