わが家の書庫を整理していると大久野島に関連する小冊子や新聞の切り抜きが出て来た。大久野島を知る上で貴重な資料なので、「忠海再発見」で紹介することにした。
1999年(平成11年)の中国新聞の文化欄に『老兵に聞け③』として毒ガス島歴史研究所代表・村上初一さんのインタビュー記事が掲載されているので紹介しよう。
復活の兆しを見せるオウム真理教。1994年から翌年にかけて想像を絶する凶悪犯罪-松本、東京地下鉄の二つの毒ガスサリン事件を起こした。それは戦争を知らない戦後の日本人の平和な日常をある日突然、襲った「戦争の恐怖」。オウムはその封印をいとも簡単に解いてしまった。戦時中、竹原市沖・大久野島で5年間、毒ガス工場に勤務した村上初一さんの危惧とは…。
「サリン事件の後、ああやはり、毒ガスは民間技術で製造できるんだ、と思ったね。自衛隊の化学部隊がすぐ出動したのも驚いたがね…。大久野島で製造していた殺虫剤サイロームは青酸を使っていたが、『ありゃあ殺虫剤よ』と皆気にも留めんかった。毒ガスも原料段階では恐怖感はなく、ウサギを使った実験も皆が知っていたわけじゃない。だから忠海では一家に一人工場へ稼ぎに出たんよ」
毒ガスは当時、「化学兵器」と呼ばれ、通常兵器に比べて人間に与える苦痛や障害が少ない「人道兵器」だと教え込まれた。しかし戦後、元工員の間で毒ガス後遺症が発生。さらに毒ガスは日中戦争で実戦使用され、約七十万発(日本側推定)の砲弾を遺棄した事実が、ここ十数年間で明らかになってきた。「人道兵器どころが、加害・被害を超えて両国民を今も苦しめる「非道の兵器」だった。
「毒ガス資料館(八八年開館)の館長になった後、修学旅行の引率の先生から『なぜ毒ガス戦を語らないのか』と指摘され、島の加害と被害を語るようになったんです。その後、村山政権(九四年発足、自社さ連立)がアジアの植民地支配を謝罪する談話を発表しますね。修学旅行と市民運動で資料館も盛況だった時期があったんじゃが…」
村上さんは九六年、「70歳定年制」の導入で館長を引退。当時の新聞各紙の取材に対し「毒ガスの加害性を語ることへの圧力と闘った八年だった」と答えている。同年、「毒ガス問題を通して戦争の被害・加害の真実を広く伝える平和研究機関」(発足趣旨)として「毒ガス島歴史研究所」を旗揚げした。
「毒ガスは、国内では後障害に苦しむ人々の多くが製造に携わった経験を持つ点で、原爆や空襲とまた事なる性格を持つ。知られざる戦争体験だが、戦争の被害と加害の両面がこれほどはっきり解る史実もないでしょう。最近は資料館の入りも少なくなっているのが気になりますが…」
政府は七月三十日、遺棄毒ガス弾の処理に必要な資金・技術・施設などを提供する覚書を中国政府と交わし、費やす経費は二千億円から五千億円。日本が化学兵器処理ののシステムを確立できれば、戦災国の復興支援などに貢献できるだろう。しかし、戦争のツケがいかに大きいか解る。