忠海の名前が歴史的な史料に登場するのは、康応元年(1389年)の『鹿苑院殿(足利義満)厳島詣記』で 「御舟を洲に押掛てゆかざりければ、はし舟をめしてただの海の浦といふ所のいそぎはに、あしふける小屋にやどらせ給ひける程に、しほ満ち来りて御舟おきぬとてまゐれり、又めしてこがせ給」と書かれています。 (平凡社『広島県の地名』より) 現在の忠海の町名の基礎となる街区の整理をおこなったのは、芸州三次藩主浅野長治で、昭和10年(1935年)発行の忠海商工会『忠海案内』によると
「浅野因幡守は、三次へ分国し当地を所領するや、吾が忠海は、商街として、船がゝり又は碇泊港として面目を一新せるものなり。
其の治績の一として、区をして統制なかりし町を整理して町奉行町役人を定め、忠海町と称せしめ、御屋敷跡、御蔵跡、御奉行所跡等現存し諸業繁昌せる記録あり特に次の町名を以ても察知せらる。
(忠海町郷土史研究会『忠海案内』より)
北浜町、本町、宇津、高見町、東高見町、新地、中東町、東町、向町、新町(両替町とも云ふ)、上ハ町、登町、鍛治町、御馬屋町、松原、永屋町、魚の店小 路、坂田屋小路、美々屋小路、芝居小路、長浜、宮床、掛場、地方、脇、二窓、流田(以上人家あり)、広畑、中谷、東ノ谷、前長浜、三本松、植松、仏捨谷、 西ケ迫、大平、大見床、烏ケ城、末友、土取、烏帽子岩、今御堂、宮畠、今市、なめら、明星、中ウネ、行司原、古薬師、走り出、江ノ内、蕪崎(冠崎とも云 ふ)、松ケ坪、遊ケ原、石仏(石地蔵)、前清水、清水、掘ケ迫、柿ノ木、榎迫、僧都(以上人家なし)」