「豊臣秀吉が水軍の重要性を認識し始めたのがいつごろか。しかとはわからないが、二回の木津川口合戦の状況が何らかの形で秀吉の認識に影響を与えたであろうことは想像に難くない。この合戦には秀吉自身は直接かかわってはいないが、さまざまな情報を得て、第一次合戦においては、海賊衆を中心とした毛利氏の水軍力の強大さを、また、第二次合戦においては、それを撃退した九鬼嘉隆の『鉄の船』にみられる造船技術の高さを頭に刻み込んだに違いない。そして、自らが司令官として毛利攻めの先頭に立つことになると、そのような認識を踏まえて早速行動を起こした。瀬戸内の海賊衆に働きかけて自軍に取り込もうという試みである。最初に声をかけたのは来島村上氏である。(中略)危機感を強めた毛利方も来島家への働きかけを強めたらしい。四月五日付の乃美宗勝あて小早川隆景書状には因島家の村上亮康が来島に渡った旨が記されているから、このころ毛利方から最後の説得工作が続けられていたものと思われる。二日後の四月七日付で小早川隆景が亮康の兄吉充にあてた書状には、『両島相違の段申す事無く候』と見えるから、この時点で来島離反を毛利方がはっきり確認したものと思われる。」(『豊臣水軍興亡史』P92~95)
「このように秀吉は、首尾よく来島村上氏を自軍に取り込むことに成功したが、秀吉の海賊衆への調略がすべて成功したわけではない。秀吉は来島村上氏と勢力を競っていた能島村上氏に対しても調略の手を伸ばしていた。(中略)天正十年四月十一日付で小早川隆景の家臣乃美宗勝が村上武吉・元吉にあてた起請文のなかで『今度来島同意の御覚悟候といえども、済々武吉へ御理申し入るにつき、輝元・隆景御忠義有るべきの通り、本望に存ずるのこと』と述べて入るように、能島は一時的に『来島同意の御覚悟』をしたが、それを、武吉に対するたびたびの働きかけによって自陣に引き止めることができたというのが毛利方の認識であった。そして信長・秀吉へ走りかけたのは、子の元吉だったらしい。」(『豊臣水軍興亡史』P96~97)
「海上勢力に対する秀吉の調略の例をもう一つあげてみることにしよう。それは、小早川隆景の重臣で、小早川水軍の中核をなす有力警固衆であった乃美氏の場合である。小早川隆景と乃美氏の関係を考えると、乃美氏に調略を仕掛けるということは、毛利氏の喉元に刃を突きつけるようなものであるが、そのような大胆なことをやってのけるのも秀吉ならではのことであるといえよう。その大胆な試みを示すのが、次の一連の書状である。(いずれも『乃美文書』)。
A 天正十年三月十七日付デ秀吉の家臣蜂須賀正勝と黒田孝高(官兵衛)が連名で乃美 兵部丞宗勝とその嗣子乃美少輔四郎盛勝にあてて、羽柴方に味方をすれば、どのよう な所でも望みの所領を与えるであろう、と寝返りを誘ったもの。
B Aと同日付で、蜂須賀・黒田の両名が連名で乃美盛勝一人に対して、寝返りの際の 給付条件を具体的に示したもの。
C A・Bの翌日の三月十八日付で秀吉自身の名で、宗勝と盛勝の両名に対して、当家 に忠義を尽くせば望みのことは何でも受け入れる、と誘ったもの。
この一連の秀吉方発給文書は、秀吉の調略の仕方をよく示している。形の上では、宗勝・盛勝父子に対して寝返りを勧めているが、秀吉方が実際に調略の対象としてねらいを定めていたのは、息子の盛勝のほうであったらしい。それは盛勝一人にあてた史料Bをみるとよくわかる。史料Bに示されている、秀吉方が提示した寝返りの条件は以下のようなものである。
一 安芸・周防・長門事参らせらるべく候、ならびに黄金五百是又別無く候、
一 児嶋の儀は備州内に候間成らず候、
一 御親父御同心無きにおいては、それ様御一人御請け候て然るべく候、さ候はば、 右之三カ国の内、何れなりとも貴所御望の所一カ国参らせらるべき事、
まず驚かされるのは、第一条である。寝返りの代償は、安芸・周防・長門三カ国と黄金五〇〇枚だというのである。黄金五〇〇枚はともかくとして安芸・周防・長門三カ国を与えるというのはどういうことだろうか。乃美氏がいかに有力者とはいえ、毛利輝元配下の小早川隆景の家臣である。そのクラスの人物が寝返ったといって三カ国を与えていれば、日本国内に領土などいくらあっても足りなくなるのはだれの目にも明らかであろう。このような途方もない条件を示して相手の度肝をぬくのが秀吉の調略の方法の一つなのであろう。
第三条も巧妙である。宗勝・盛勝父子がともに『同心』してくれるのに越したことはないが、場合によってはそなた一人でもよい、とひそかに盛勝にささやきかけているのである。おそらく乃美家の内部事情を十分に承知していて、いくらなんでも小早川隆景の信頼厚い当主宗勝が寝返ることはない、寝返るとすれば、盛勝のほうだとねらいを定めていたのであろう。そして盛勝一人が寝返った場合は、条件は若干低下して、先の三カ国のうち
一カ国のみを与えるというのである。
この秀吉方の誘いに乃美氏側がどう答えたのかについて、後世の軍記物語はさまざまな所説を記しているが、実際のところははっきりしない。わかっていることは、まもなく盛勝が『病死』し、二男の景継が宗勝のあとを継いだということである。秀吉の調略の手が乃美氏の家中に大きな波紋を引き起こしたことは間違いないようである。」(『豊臣水軍興亡史』P99~101)