1979年(昭和54年)秋、有元正雄、天野卓郎、甲斐英男、頼棋一の4人の歴史家が執筆した『広島県の百年』という本がある。その「あとがき」には次のように書かれている。
「当時『広島県史』が編纂されていたが、その内容を簡潔・平易に要約して県民の多くの方々にお目にかけたいと思った。と同時に、単に『広島県史』のダイ ジェスト版ではなく、広島県の近代・現代史の性格をより鮮明に浮き彫りにし、私たちの祖先や私たちがそれとどのようにかかわってきたかを読者に示したいと 思ったのである。」(P337「あとがき」)
この本の中に出て来る明治時代の忠海の記事を抜粋してみよう。
「王政復古・戌辰戦争期の慶応3年(1867年)から翌年初めにかけて、広島・竹原・忠海・三原・尾道などで『ええじゃないか』の世直し踊りがおこった。 芸備地方で最初におこったのは芸長軍が駐留していた尾道のようである。11月29日夜大神宮の御祓がふり、それより昼夜諸神社の守札がふり、30日『夕か たより諸人町中おとり始り賑々敷事』といわれている。竹原でも諸種の神札や仏像などが富家にふった。これらが降臨すると老若ともに大よろこびでただちに大 酒を飲む。富家へは雇人らが大勢はいりこんでぶっつぶれるほど飲み食いし、若者は踊り狂って盆踊りよりはなはだしく、昼夜とも酔っぱらいと踊り狂いが町中 にあふれていた。」(P23「維新と芸備」)
「明治20~30年代(1888~1898年代)以降になって資本主義が本格的に発展してくると、もともと人口の過剰な広島県の農村では、その過剰労働力 を遠隔地への職人・商人として、また近隣の町場への職人・仲仕・女中などとして放出してきた。豊田郡小泉村の明治15年(1882年)から大正3年 (1914年)末までの『出寄留簿』から、その出寄留先を見ると、明治20年代前半までは近隣の豊田郡忠海町・御調郡三原町・尾道町などへの出寄留が多い が、20年代後半ころから広島・呉をはじめ県外へも拡散していく。とくに海軍工廠の設立された呉への出寄留はきわめて多く、青年男子の単身寄留、または一 家転住の形態をとっている。そのほか長崎・福岡両県下の炭鉱夫や八幡製鉄所の職工、岡山県や大阪府下の紡績女工、阪神・東京などの各種職工や店員などへの 出寄留が予想される。」(P107「資本主義の発達と戦争」)
「明治19年(1887年)の中学校令で県立中学は一県一校の原則が確立されたが、一方で県の財政危機により中学校の地方税支弁廃止が決定した。備後地方 では、福山中学校を維持するため福山教育義会が設立され、広島中学校も寄付金で維持しようとしたが、どちらも醵金が思うように集まらず、24年(1892 年)の中学校令改正後、地方税維持に復帰した。このころから中学校進学志願者が増加し、地域間格差を解消するという意図もあって、備北に広島県第三尋常中 学校(明治31年開校、三次中学校)を設置、安芸南部では豊田郡各町村学校組合立豊田尋常中学校(30年設立)を県に移管して第四中学校(33年、忠海中 学校)とし、さらに明治44年(1912年)呉私立呉中学校を県に移管した。」(P138「資本主義の発達と戦争」)
「明治26年(1893年)に銀行条例が施行されると、以後県内各地に多数の銀行が設立されることになった。まず27年(1894年)1月に加茂郡竹原町 に同地の地主、製塩業、酒造業、金穀貸付業などの資金を集め、資本金5万円の合資会社竹原銀行が設立された。その後明治34年(1901年)までに27行 が設立されており、豊田郡忠海町にも明治34年7月18日に資本金30万円で豊田銀行が設立されている。(P123~124「資本主義の発達と戦争」)
「大正2年(1913年)第3次桂内閣が憲政擁護運動のまえに、組閣後わずか50余日で総辞職した。これを大正政変と呼ぶが、大正政変は、みずからの力で 内閣を倒したということで、民衆運動を大いに勇気づけた。5日後には広島県憲政擁護祝賀会が開かれ、終了後に中国新聞襲撃事件がおこる。この事件後も憲政 擁護運動が各地でくりひろげられ、政友会の協力によって第1次山本権兵衛内閣が成立するや、世論はこの内閣を依然たる閥族内閣であるとし、非難のほこさき を政友会の軟化にむけたのである。県内でも、3月20日に在呉同志記者会のよびかけで開かれた同市中通演芸館での第2回呉市民大会では、『さきに桂内閣を 倒したる以上の勇気を鼓舞し最善の努力をなして政党内閣の必成を期す事』との運動目標が掲げられ、『代議士佐々木仙一氏に政友会を脱会せられん事を勧告す る事』が決議されている。ついで4月20日には豊田郡忠海町大黒座で憲政擁護大会が開かれ、おなじように政友会の排撃が決議されている。」 (P143~145「デモクラシーの時代」) これらの記事を見ると、明治から大正にかけて忠海が芸南地域の教育・文化・経済・政治の中心地であったこと がわかる。