忠海高校は昨年百周年を迎え盛大に記念式典が挙行されたが、その忠海高校(旧制忠海中学校)の初代校長・種田織三について書いてみよう。
過日、広島ホームテレビの取材に同行して忠海高校を訪れた際に、校長先生から、「実は旧制忠海中学校の初代校長である種田織三という人はあの大森貝塚を発 見したモースの弟子だった」というお話しを伺い、そのことが『モースその日その日』という本に記述されているということだった。そこで早速その『モースそ の日その日』という本を購入して読んでみると、随所に種田織三という人が登場する。抜粋してみよう。 まずモースについて紹介してみよう。「明治の初め、日本は欧米の近代文明に追いつくために、何千もの外国人を雇い入れた。幸いにも、その御雇い外国人の多 くは優秀な人材で、若い国日本のために骨身を惜しまずに働き、最新の知識と技術を伝えてくれた。この人々の献身なくして今日の日本はありえなかったのだ が、その御雇い外国人たちのなかでもモースほど幅広く大きな影響を与えた人物は数少ない。モースは東京大学理学部の初代動物学教授となり、一夏だけでは あったが、江の島に本邦初の臨海研究施設を開くとともに、現日本動物学会につながる学会をも創設した。ダーウィン進化論の紹介者もまた彼であったし、それ 以外にも科学の普及という点での貢献は無視できない。一方、彼による大森貝塚の発見と発掘は考古学ならびに人類学の勃興をうながした。」(磯野直秀『モー スその日その日』P9)
このモースの助手として、行動を共にしたのが種田織三であった。この本では種田織三を次のように紹介している。
「種田織三は、舘藩(明治2年北海道檜山郡厚沢部に新設)の出身。諸藩から推挙された『貢進生』の一人として明治3年に大学南校に入り、9年に東京開成学 校予科を出た。松浦佐用彦や佐々木忠次郎、松村任三とは同級になる。しかし、理由はわからないが、種田は本科には進まなかった。そしてモースの助手になる のだが、モース留守中の大森貝塚発掘には参加していないので、雇傭はその後であろう。モース在任中は動物学教室の標本の採集や整理に従事、モースの北海 道・東北旅行ならびに九州・関西旅行にも同行、モースにとっては無くてはならぬ人物だった。やがて、モース帰国直後に完成した博物場の管理を受け持った が、明治18年9月に東大を去る。その後、東京商業学校、山形県中学校、山形県師範学校などで教えていたらしいが、のちの消息は不明である。いま東京大学 理学部動物学教室には、ダーウィンの『種の起源』第6版(1872年米国版)が一冊残されているが、それには『固ト此書ハ種田織三氏ノ所有ナリシモ故松浦 氏ノ所有トナリ次テ佐々木忠次郎ノ所有スルモノナリ』と記した付箋がついている。種田は日本で『種の起源』にもっとも早く目を通した人の一人だったのであ る。」(『前掲書』P168~169) この本では「種田ののちの消息は不明である」と書かれているが、この種田織三こそ、明治30年忠海中学校初代校長 として「荊棘に満ちた過渡期を担い、光輝ある忠中史の礎石を固める」(梅林慈円「忠中先史時代への回想」『忠海高等学校の100年』P66)のである。
忠海高等学校では創立百周年を記念して、書庫を整備したが、その蔵書のなかには、種田織三がその博学にもとづいて収集したであろう稀覯本が存在するそうである。