伊東成郎著『新選組と出会った人びと』(河出書房新社)という本の中で池田徳太郎が取り上げられている。
「池田は浪士組の募集活動に参画することになる。そもそも池田は漢学者として著名な人物だった。明治29年に、雑誌『名家談叢』に連載された『新徴組浪士の談』に、池田の詳しいプロフィールが紹介されている。
……池田徳太郎は(中略)清河八郎とは文学上の朋友で、武人の方ではないそうです。この池田は(中略)上州、野州辺の村々を渡りまして、(中略)四書五経の素読を、庄屋どのの子どもたちに授けたり(中略)して、数年の間そこここと村夫子を決めていた男です。詩文もでき、人物も篤実で、どこの田舎でもかなりの人望があって、学者先生とと尊敬された……
武闘派の多い清河の周辺の中で、池田は明らかに異なるタイプの人物だったらしい。
浪士組は江戸の浪士ばかりを統合した集団ではなかった。のちに新選組創設者の一人となる武州大里郡出身の根岸友山は、尊攘派とも多数接触のある豪農でもあった。清河は浪士組にこうした将来ある富裕層も加入させることを推進したらしく、池田徳太郎はまさに適役として、関東周辺でいわばスカウト活動を展開した。
同じく文治派で医師でもあった石坂周造と手分けし、池田は武州から上州まで行脚し、浪士組の募集を説いて回った。前掲『新徴組浪士の談』によれば、
……あの池田先生の言うことなら間違いはないと、われもわれもと募りに応じましたのです。とある。神通力と言ってもいいだろう。
そして浪士組は文久3年2月8日、京都に向けて中山道を出立した。池田はこの道中、先番宿割りの任務を担当した。浪士たちの宿舎を手配する役目である。そして当初池田の下には近藤勇が同役として付いた。まったく偶然の配置であろう。
ところが道中、水戸出身の芹沢鴨の小隊の宿所が取れていなかったことが判明する。芹沢隊には、平山五郎ら芹沢の配下格のメンバーとともに、土方歳三や沖田総司ら、近藤勇の試衛館道場出身のメンバーたちも混在していた。
芹沢は激昂し、路上に泊まると称して大篝火を焚いた。土下座する近藤に目もくれず、傍若無人に振る舞う芹沢は、山岡鉄太郎のとりなしで矛を収めたという。
永倉新八が、江戸出立の翌九日に本庄宿で起きた出来事として『新撰組顛末記』にのみ伝えた事件だが、さらに後日の十四日下諏訪で起こった事件だった可能性が高い。
永倉は触れていないが、温厚な池田徳太郎は、宿割りの責任者として、近藤とともに芹沢に詫びたものと思われる。」(P153~155)
今川徳三著『近藤勇と新選組』(教育書籍)にも浪士組の編成の記述があるので紹介しよう。
「石坂宗順は、のちに『史談会』の席上で
……近藤勇という者の如きは自分らの同士で、京都へ連れて参る時には、隊長を命じておきました。(土方以下九人の長のこと)
しかるところ、どうも同人の挙動は真実の真実の尽忠報国の党とは見えませぬで、そこで内評議には彼を除かなければなるまい、という相談も致したことがありました。そこで彼(近藤)を段々説諭をし、或は譴責を加えますると、(近藤の言うのに)私はもとよりそういう精神の者ではありませぬが、しかし、隊の中にはどうも異論を唱へる者がございます。といっておりますから、そこでその時の(私の)考えは、これはなる程、(近藤の言う通り)隊中にも土方歳三、或いは藤堂平助などという悪者の居ることも存じておりますから、兎も角もその隊を私が預かってみよう。
どうしても彼らが勤皇家でないというならその時には誅を加えて終う。それではお前(石坂預かり)の隊と近藤勇の隊を入れ替えたら宜しかろうということに成った。-自分の隊は皆誠忠無二の者でございますから、たとえ近藤の下につきましても不都合なことはございませぬ。彼ら(近藤の)の隊を自分が引き受けてみますると、どうも異論が紛々としてあるのです。段々説諭をしまして、やや降伏したようにみえましたが、いかんせんそのもとはというと勤皇と不勤皇ですから、氷炭相容れずで-
と語っている。
近藤はじめ試衛館の一門は、出発を前にして早くも異端視されていたのである。
手に余る場合は斬って捨てるという、その意見は石坂も池田も同じで、道中、様子をみることにして、とりあえず、試衛館の勢力を二つに割り、隊員の一部と入れ替えてみろというので、土方歳三らを六番隊に、井上源三郎、沖田林太郎らは三番隊としたものである。
近藤は別に切り離せ、ということから、池田徳太郎の配下に付け、佐々木如水とともに役付きの『先番』として、常に隊より先行させ、道中の宿舎の確保と部屋の割り当て当たらせた。(略)浪士の多くは、幕府に命ぜられて行くのではなく、行ってやるのだ、といった意識が強く、わがままな行動に出る者が多かった。その中でも、特にわがままであったのは、芹沢鴨である。
近藤は先番として、隊より先行して部屋割りを手伝っていたが、本庄でうっかり芹沢の部屋を落としてしまい、これに腹を立てた芹沢が、野宿するといって宿場の中央に古木材を集めてきて一晩中火を焚き、宿の者を火災の恐怖に落とし入れ、近藤が詫びを入れても容易に聞き入れなかった。という話は語り古されているが、道中、ずいぶんとわがまま勝手な行動を取った。
関知しないはずの清河も、さすがに頭に来たのか、顔に色なすこともあったが、まあ京都につくまでは、と腹の虫を殺した。近藤なども芹沢から平隊士扱いされて腹を立てた方であるが、感情を表面に出さなかった。むしろ、先生先生といって、芹沢の機嫌を取り結ぶようにつとめていた。