前号で紹介した木村毅編『瀬戸内海・中国路』という本の中に、あの『エデンの海』の作者である若杉慧の「海峡をわたる蝶」という一文が掲載され、ここにも若杉慧の心象風景としての忠海が文学者の眼で描かれている。興味深い文章なので、ここに転載する。
「三原・糸崎は右に遠く、左には因島、佐木島、生口島。船は次第に高根と宇和島の間に進む。
『船のその間を行くとき島かと見れば岬なり。岬かと見れば島なり。一島未だ去らざるに、一島更に現れ、水路きはまるが如くにして、また忽ち開く』
この海の詩と真実をのべてこれにまさる古典はあるまい。私たちは、みんなあの黒表紙の文部省の国語読本のこの課によって、瀬戸内海のイメージを得たのである。
花崗片麻岩の風化によるこの海は、正しくは黒松赤砂というべきかもしれないが、われわれのイメージにおいては、あくまでも青松白砂である。遠い時代には 四国との陸つづきで、陥没地帯としていまは山々のいただきをのこしたと言われているこの海は、島々にも同族的な風貌がみえる。しかしどんな兄弟にだって個 性はあるように、一つの島には固有の線と姿勢と容量があって、他のそれとまぎれることはない。島々は久濶の挨拶をもって私をむかえてくれた。私もかれらの 名前を一つ一つ忘れずにいる。
私は二十数年前、この海岸の女学校に居た。青春の海、エデンの海、したがって私にとっては失楽の海でもあったのだ。二十三歳の夏、生徒と一しょにこの海 を泳いだ。遠泳六キロ、忠海から宇和島まで-。翌年は、忠海から高崎まで-。白線の三本入った教師帽をかぶって私は生徒の列の先頭に立ったのである。い ま、甲板の手すりにもたれて見降ろすと、海はあの日の青さにかがやいているが、私はこの海をふたたび泳ぐことはできない。
岬を一つまわると忠海の町-私はここで一人の女、いまは亡きはじめの妻を得た。教師としてはむしろ非難さるべき経過をたどって得た。また、この船の終点である大崎下島に、私の帰りを待っている現在の妻も、かつてはここでの教え子であった。
私はこれまで何度かこの海を船で通ったが、いつも船底に身をひそめ、人を見ることも怖れた。この海は悔恨と慚愧の海でしかなかったのだ。
このたびは私は甲板から下りようとはしなかった。二十年前、私の目から校舎の窓の一つ一つを消していった岬の岩が、いま私の目の前に一つ一つを開いてみ せてくれる。このあたりの学校には学生動員もきていないのか、放課らしい窓々には白い生徒のすがたも見え、私がラケットを振ったコートには、私に似た教師 のすがたも見える。それは望遠鏡を逆さにして、二十年前のぼくの姿をそこに見るように遠く、小さく見えた。ああ、何という昔のままの風景! しかし昔のま まの彼女たちではない。あの生徒たちのなかには、昔の私の教え子の子供さえ何人かまじっているにちがいない。
転瞬ということばがある。この瀬戸内海がかつては陸地であり、いまは海となりいつかまた隆起して陸地となるかもしれない。永い時間の眼から見れば、ひとりの男が若い日にこの海を去って、初老におよんで帰ってきた二十年前は、それこそ転瞬の形容にも値しないであろう。
しかし今はもうこの風景は私を譴責しない。これから行く先々の土地で昔の教え子の誰に会っても、同様であろう。いや、はじめから彼女らは私を譴責などしなかった。 私自身の青春が暗かったのである。」
若杉慧がこの随筆を書いたのは昭和21年である。42歳の時で、十幾年も住み慣れた神戸を引きあげて、大崎上島にある国立商船学校の教師として赴任する際に書いたものである。若杉慧の「青春の忠海」への想いが伝わる一文である。