最近、中公新書から『瀬戸内海の発見』という本が刊行された。著者の西田正憲という人は全国の国立公園の管理に携わった人で、本の副題は「意味の風景から 視覚の風景へ」とつけられ、瀬戸内海についての景観認識の変化をたどるものとなっている。この本の第1章「瀬戸内海の風景紀行」のなかに芸予要塞と大久野 島についての記述がある。
「芸予要塞は芸予諸島の北の大久野島と南の小島の2カ所であったが、この大久野島はその後特筆すべき数奇な運命をたどった。要塞廃止直後の1927(昭和 2)年陸軍の忠海兵器製造所が建設着手され、1929(昭和4)年日本で唯一の毒ガス製造工場が誕生した。終戦をむかえ、大久野島は1947(昭和22) 年一度は日本政府に返還されたが、朝鮮戦争勃発とともに、アメリカ軍の弾薬庫を置くためふたたび接収された。大久野島には、明治の日清・日露戦争にかかわ る要塞、十五年戦争にかかわる毒ガス工場、そして朝鮮戦争にかかわるアメリカ軍の弾薬基地と三重の歴史の傷痕が刻みこまれている。大久野島はいまは国民休 暇村としてレクリェーションの島になっているが、この歴史の貴重な痕跡をたどることができる。」(『瀬戸内海の発見』P14)
この芸予要塞について、大三島の郷土史家・松岡進氏の『瀬戸内海水軍史』という著書のなかにおもしろい記述がある。 「明治15年欧州旅行中の参議伊藤博 文に対し、陸相大山巌は、バルチック艦隊戦法に対する築城の英才捜しを依頼する。その求めに応じて来日したオランダ工兵大尉ヴァン・スケルンベークは、日 本各地海岸踏査の結果、明治18年『日本国南部海岸防御復命書』を提出した。これにより瀬戸内海中部の『芸予要塞』(大久野島・小島)建設の基礎計画がで きた。
明治28年2月、威海衛の海戦で、砲台の重要性を痛切に知った大本営は、芸予要塞の建設に着手したが、このバルチック艦隊戦法に対する要塞に用いた赤煉瓦 はドイツのハンブルグ製であった。芸予要塞司令部は広島県忠海に置かれたが、その司令部遺稿の建築物も、大久野島と小島のヴァイキング式要塞赤煉瓦も、と もに当時の姿と色彩を鮮烈にのこしているのである。」(『瀬戸内海水軍史』P774)
ここに書かれている芸予要塞司令部は現在のアトム株式会社の建物のことであり、大久野島と小島の要塞も一対をなして残っている。
村上初一氏の著書『毒ガス島の歴史《大久野島》』は芸予要塞の島に毒ガス工場が設置される経緯について次のように書いている。
「芸予要塞は廃止され重要建造物と一部大砲が撤去され、軍事上の要地としての立場を失って沈滞していく町に一躍活気を取り戻したのが陸軍造兵廠管下の軍需 工場が大久野島に設置されることであった。不景気な時代であるほど、地域の人たちに望みをもたらした兵器製造所設置のことであり、不況にあえぐ人々は、そ こで何が製造されるかは知らなかったが、倒れる心配のない陸軍の軍需工場であるだけに、町民はもとより付近住民に対しても同様活況を呈したものであっ た。」(『毒ガス島の歴史《大久野島》』P12)
「『日本陸軍火薬史』によると国際条約により使用禁止になっている毒ガスすなわち化学兵器は各国とも極秘裡に実施しつつあったが、本邦においては大正14 年に化学研究所に第三部を新設して本格的研究調査に着手し、その研究成果に基づき、昭和2年にはこれが製造工場を火工廠管下の製造所として建設することに なった。製造工場の位置は外部に対する秘密保持と発生する排気汚水の関係上なるべく住民地帯と隔絶しあるを要し、しかも作業上の利便のためにはある程度住 民地帯に接近しあるを可とする。東京から遠く離れた場所に、このような重要な工場を置くことに決定した理由は、天災や不測の災害が起こった場合の危険を配 慮したものである。毒ガスの露出、汚染などの被害を近隣住民に及ぼさないためである。東京で危険なものは地方でも危険は同じであろう。しかし、好景気を連 れてやってくる“危険な仕事”の実態を知らない一般の人たちは、造兵廠の地方移転を歓迎した。」(前掲書P19)