黒滝山の登山口、地蔵院町の一角に巌谷小波の句碑があるのをご存知でしょうか。
巌谷小波について平凡社『世界大百科事典』はつぎのように記述しています。
巌谷小波(いわやさざなみ)1870(明治3)年~1933(昭和8)年 童話作家、小説家、俳人、本名季雄、漣山人、大江小波とも号した。
俳号、楽天居。書道家、漢詩人巌谷一六の三男。東京に生まれ、杉浦重剛の称好塾や独逸学協会学校などに学ぶ。
尾崎紅葉等の硯友社の同人となり、処女作《真如の月》(1887)、《五月鯉》(1888、のちに《初紅葉》と改題)などを《我楽多文庫》に発表した。
1891(明治24)年博文館の《少年文学》第1編として刊行された《こがね丸》は、明治における創作童話のはじめであり、近代児童文学の最初の道標であ る。以後この分野に転じて、1892(明治25)年博文館に入り、《少年世界》《少女世界》《幼年画報》《幼年世界》を主宰し健筆をふるった。
再話翻案物としての児童読み物に《日本昔噺》《日本お伽噺》《世界お伽噺》《世界お伽文庫》のシリーズがあり、説話や創作童話の整理・移植によって児童文学の普及につとめた。
1900(明治33)年ベルリン大学東洋語の講師となり、帰国後早大講師。童話執筆のほか、川上音二郎とともにお伽芝居を興し、1903(明治36)年仮 名づかいにも一定見を有して文部省の国定教科書の編集に従事したこともあり、1918(大正7)年博文館を退いてからは口演童話に専念するなど、児童文化 や社会教育に貢献したところが大きい。
童話の作風は、江戸期文芸の流れを受けて物語的であり、児童の性格や心理を凝視する微妙さを欠くが、新文化興隆の時代の気運と彼自身の資質とあいまって積極的楽天的傾向をもつ。
また俳句にもすぐれ木曜会を主宰し没年に及んだ。児童読み物の精髄は小波お伽全集》12巻(1928年)に結集されている。(恩田逸夫)
この巌谷小波の句碑がなぜ忠海にあるかは定かでないが、筑摩書房の『現代日本文学全集84 明治小説集』の巌谷小波の年譜につぎのような一節がある。
昭和8年6月末、中国地方巡講中、腸閉塞症を起し、広島市西魚屋町の日下部病院に入院。切開手術の結果、癌に因るものと判明。8月、日本赤十字病院に入院、再手術を受けたが、29日危篤に陥り、ついに9月5日永眠。
辞世の句は「極東の 乗り物や これ桐一葉」この中国地方巡講中、忠海にも立ち寄り、黒滝山を眺めて、句碑に記されている一句を詠んだのではなかろうか。この句には不治の病への予感すら感じさせるものがあるような気がする。
ちなみに、この句碑に刻まれている一句とは
「ただ頼む 大悲の山や 五月晴れ」
というものである。