広島の古書店「文廬書店」がついに閉店することとなった。その閉店セールで網野善彦・森浩一対談集『馬・船・常民 東西交流の日本列島史』という本を手に入れた。その中に「瀬戸内海・伊予」という章があり、忠海が登場するので紹介しよう。
網野 伊予は大国なんです。伊予がどういう意味で大国になっているのかについても、考えなおしてみる必要がありますが、院政時代の貴族にとって伊予は垂涎の国だったようです。ただこの場合もただ水田が多いから大国だったのかどうかは問題で、やはり海も意味があるのではないかと思います。実際伊予と淀川は、遠いようだけれども、近いんです。藤原純友の軍勢はすぐに淀川にまで顔を出しますから、とくに日振島北九州に近い。だから、伊予は、北九州から瀬戸内海の交通を支配する時の要の意味をもっていたのではないかと思うのですが。
森 このあいだ松山市考古館(松山市立埋蔵文化財センター)に行ったら、そこへ行く直前に訪れた韓国の晋州の博物館にあった絵の具で、文様を描いた彩文土器とそっくりな土器が松山市の大淵遺跡で出ているのでびっくりしました。普通は、朝鮮半島南部の影響は博多のあたりを考えるけれども、愛媛県でもいろんなものがぼこぼこ出るんです。有柄石剣という柄のついた石の剣もそうですね。そういう大陸との繋がりが無視できない土地なんです。
網野 大林太良さんも『瀬戸内の海人文化』で書いておられますが『予章記』には、おもしろい話がでてきます。河野の祖先の話ですが、朝鮮半島から攻めてきた人が、「鉄人」なんです。その鉄人を倒したのが、河野氏の祖先で、それに従ってきた人たちの、足のよぼろを切って河野氏が従えた。それが河野の支配下にいる海民だということになっているのです。もう一つ興味深いのは、伊予の対岸の安芸に沼田荘があって、そこは能地や忠海などの海民がいるのですが、平氏と戦ったとき、河野氏はいったんそこに逃げ込んで、この人たちを引きつれて伊予を取り返すことになっています。(P150~151)
ところでこの『瀬戸内の海人文化』の中で「瀬戸内海交通の支配者」としての西園寺家と伊予について書かれているので紹介しよう。
九条家、一条家、さらには鎌倉の将軍家との姻戚関係を通じて、朝廷にその地歩を固めつつあった西園寺公経がはじめて伊予国の知行国主となったのは建仁3(1203)年のことであるが、これに続いて、建永元(1206)年には周防国の知行国主となっている。このように瀬戸内海の西の入口にあたる両国を押さえている点に、西園寺家のこの海域にたいする強い関心が、早くも動いていたことを推測することができる。(中略)前太政大臣の地位にありながら、このような「下職」ともいうべき所職に、公経がこれほどの執着を示し、家格を顧みず、ついにこの地を手中にした事実を通して、西園寺家にとっての宇和郡の重要性をうかがうことができるが、その意図は、純友が日振島を根拠にしたという歴史からみても、海上交通の要地の掌握という点をおいては、理解し難いといわなくてはならない。こうして西園寺家は、後年、南北朝動乱期に宇和郡にその一流を土着させ、室町期以降さらに足場を固め、ついにここを基盤に伊予の戦国大名にまでなっていくための足がかりを、はっきりとつかんだのである。しかもそれだけでなく、伊予国において、西園寺家は、さらに宇摩荘を手中にしており、知行国主として支配下においている国衙領をはじめ、船所などの諸機関の掌握を通じて、瀬戸内海の海上交通に大きな力をおよぼしたものと思われる。また、鎌倉時代の同家の所領は、周防国玖珂荘、安芸国沼田荘、備中国生石荘、備前国鳥取荘、播磨国五箇荘、摂津国富松荘など、瀬戸内海沿岸諸国にもいくつか分布しているが、なかでも沼田荘は、公経のときすでに手中にている所領で、その内部に、後年、海民の拠点として知られる能地、忠海、渡瀬を含む浦郷を擁する海上交通の要地であり、西園寺家は橘氏を預所として、現地の経営に力をいれている。
これらの事実からみて、西園寺家と瀬戸内海の海上交通とのかかわりが、これまで予想されてきたよりもはるかに深いものであったことは明らかであるが、瀬戸内海の東の入口で、都との間を結ぶ水上交通路である淀川に沿って、同家の所領が分布していることも、もとより、このことと関連するとみなくてはなるまい。(『瀬戸内の海人文化』網野善彦「中世前期の瀬戸内海交通」P300~304)