小川徹太郎著『越境と抵抗』という本を手に入れた。この本の中に以前紹介した「近世瀬戸内の出職漁師-能地・二窓東組の『人別帳』から」という論文が掲載されているので、抜粋して紹介しよう。
小川徹太郎氏は「俵物貿易が本格的に展開されてゆく、十八世紀初頭の頃より、瀬戸内の能地・二窓東組の小漁師による瀬戸内全域におよぶ盛んな寄留・移住 現象がみられる。両浦漁師の檀那寺である善行寺の『過去帳』には死亡時の場所が『○○行』と記録されているので、それをたよりにして、おおよその彼らの活 動範囲を知ることができるのだが、その地名を分布図に落とし、彼らの近世から明治にかけての展開の様相を明らかにしたのは河岡武春である。それによると、 両浦漁師の活動範囲は、東の小豆島から西は小倉の平松浦までの広域に渡っていたことがわかる。ここでも、この河岡の論功を敷衍する形で、もう少し丹念に彼 らの寄留・移住の展開の詳細について触れた上、こうした展開を明らかにしうる『過去帳』『人別帳』の記述そのものの意味についても言及しておきたいと思 う。」と前置きし、能地と二窓漁師の出職について述べているが、ここでは二窓漁師についての記述を抜粋する。
「『過去帳』によると明らかに出職先での死亡であることを判明しうる一筆の初見は1719(享保4)年に『備前行』とある。さらに、行先の藩ごとに過去 帳記載の初見年代を見ていくと、讃岐には1721(享保6)年、備前には1719(享保4)年『備前行』、備後には1724(享保9)年『草深行』、安芸 には1724(享保9)年『御手洗行』『大長行』となっている。多少の差はあれ、およそ十八世紀初頭とりわけ享保期の件数が目立つことから、この頃には瀬 戸内に面した5カ国にまたがる出職がみられたことがわかる。手元にある二窓に関する過去帳の写しを見ると、この期(1700-24年)には、記載年数の全 くみられない年もあり、最も多い年で8件、平均すると各年2件ほどにしかならない。もちろん、出職者の件数もこの25年間に4件ほどしか見当たらず、事情 はよく解らないが、記載される絶対件数と共に、出職者件数もごく僅少であることがわかる。その後、両件数とも漸次増加をみるが、それから約100年を経た 1800年代になると異常なまでの激増をみる。1800-24年の間に222件、うち出職者85件、1825-49年の間に423件、うち出職者266 件、1850-74年の間に552件、うち出職者275件となっており、両件数とも幕末期における上昇が目立つ。これだけ目に見えて幕末期における件数の 増加がみられることは、どういう形であれ、人口増加と他国への頻繁な出職がみられたことだけは、ほぼ間違いのないことである。
そこで、この漁師の捕捉されていく仕組みについて、1833(天保4)年の『宗旨宗法宗門改人別帳』の記述を通して検討を加えてみたいと思う。1833 年というと、先の過去帳記載件数の激増期にあたるが、その最中にあって、それまで浜浦役人に厳しく申し付けられていた『年々宗門人別改并増減之改』や毎年 『一艘も不残諸方出職之者呼戻シ、寺へ宗門届等に参詣』するよう義務付けられていたことが守られなくなってしまっていたようだ。1829(文政12)年、 両浦庄屋へ『御番組厳敷』との藩命が下り、それを諒承する形で、『諸方出職之者共宗旨宗法勤等乱ニ付』という現状認識のもと、能地の割庄屋、二窓の庄屋、 組頭それぞれと善行寺住職が『示談』の末、極めの手段として廻船による『見届』実施を決定している。
期日は、1833年2月-7月6日。出職者の『見届』については、能地では組頭を、二窓では役代のものをそれぞれ付添として同伴し、住職自ら『出勤』の 上、すべての出職先を廻船している。漁師に対しては、本尊を常に信心せよ。死亡者は、たとえその年に生まれた子であれ連れ帰れ。正月・盆の宗門届は固く勤 めよ。先祖の法事、それが赤子であれ、決してうやむやにするな。寺の建立・修復の時ならず、心付けを行うこと。年に一度は、五人組を通じて人別帳を提出す ること。往来手形を持たない者は、出職先に召し置くことはできない。宗旨宗法を違乱なく守れ。という『条目』を申し付けた後、いずれの船からも『請印』を とり、さらに『条目』に違反する『不埒之方角』の者からは『誤証文』を差し出させ、以後の規則遵守を確約させている。こうして実施された迴船の成果は三冊 から構成される人別帳のうちの二冊分としてまとめられている。一巻『当村地方・浜方、二窓地方 渡瀬、忠海、小坂』、二巻『能地浜浦諸方出職之者』、三巻 『二窓浦諸方出職之者』。このうち、出職者に関連するのは二・三巻であるが、双方とも、巻頭に『此宗帳天保六午八月浜庄屋江借用せられ、壱人も不残書出、 宗旨御奉行衆之目前ニ而拙僧慥に請印形相調候者也』と記された但し書きと、先の『浦条目』が掲げられ、その内の二巻の方には『此通リ相調へ、御公儀江出し 候者也』と明記されている。巻末には、『人別帳』の由緒や作成経緯とともに、船頭数つまり筆数と、成員数の総計が示されている。それによると『能地浜浦』 在住者142筆、646人、『二窓地方』在住者54筆、246人に対し、『能地浜方諸方出職者』420筆、2053人、『二窓浦諸方出職者』192筆、 1013人となっており、両浜浦合わせた『諸方出職者』の員数は、地元在住者の三、四倍を占めることになる。」(小川徹太郎『越境と抵抗』 P194~201)