忠海駅を中心としてその周辺には、かつて塩田がありました。忠海公民館の図書室にある三呉線工事中の写真には塩田の真ん中を線路が通る様子が写されています。
岡光夫著『日本塩業のあゆみ』という本に、この忠海の西徳浜において塩業を営んだ田窪藤平について書かれた「藤平翁と製塩法」という資料が42ページにわたって掲載されています。
この資料は尾道市吉浦町の天野家に所蔵されているもので、塩業労働者あるいは小作人として一生を終え、入浜塩業改善の技術開発をなし、著しく安芸、備後はもとより広く瀬戸内の塩業に貢献した田窪藤平に関する記録です。
この資料は前編と後編とからなっていて、前編は藤平翁にインタビューをして得たもので、後編は藤平翁の伝記と備後松永塩田と安芸竹原塩田の改良の事蹟について書かれています。(岡光夫氏の解題)
安芸、備後、伊予の塩田はもともと山川の形勢、土壌の良否の点で播磨や讃岐の塩田より劣っており、開墾後200年余りを経過したものが多く、塩田としては老齢の期に入っていました。
そこで明治14年(1882年)以降主産地松永および竹原塩田において率先して製塩法の改良を企画し、その面目を一新し、その産額の増加に、その生産費の減少にすこぶる好成績を得たが、それは田窪藤平翁が集成した製塩法を採用したことによるとされています。(緒言)
田窪藤平は、伊予波止浜に生まれ、若いころから父に伴われて製塩に従事し、のち瀬戸内の塩田を歴視して製塩法の改良につとめました。
伝記によると
「翁ハ、地盤ノ状況ヲ察シテ撤砂ノ入替ヲナシ、或ハ撤潮ノ法ヲ改メ、或ハ乾燥法ヲ変スル等悉ク自得ノ方法ヲ以テシ、他ト大ニ趣ヲ異ニス。会々 雇主来リ視テ其方法ノ異ナルヲ怪シミ、之ヲ責ム、翁自信ノ篤キ熱心改良ノ利益ナルヲ説クモ、雇主ハ半信半疑ノ間ニ期ヲ終業セリ、然ルニ其ノ効果シテ空シカ ラズ、他ノ普通法ヲ執リタルモノヨリモ1400~500俵(1俵5斗2升入)ノ増収ヲ得タリ」
と記されています。
その後、大三島においてさらに研究錬磨して塩田の改良に努め、終に前年まで製塩量2700俵に過ぎなかった塩田を7000~8000俵採れる塩田に改良し ました。このような成果を聞いて、大崎、風早、松永等から招聘を受け、次々と改良に成功します。特に竹原と松永においてはその後の隆盛をもたらす改良をな し、この資料にその内容が「備後松永浜ノ改良事蹟」「安芸竹原浜ノ事蹟」として詳しく掲載されています。
田窪藤平は、明治15年(1883年)以来、住居を忠海に移し、明治31年(1899年)までの17年間、西徳浜の塩田で模範的な経営をしながら、竹原、松永をはじめとする各地塩田の管理及び指導にあたり、瀬戸内塩業の発展に尽くしました。