『忠海案内』によると、「此辺を床の浦と云ふは、宮床大明神の鎮り給ふ故にて、元は忠海及び長浜浦も一円に此神社の境内と云ふ、忠海付近即ち、木谷、吉名 村、大乗村、忠海町、幸崎町、須波村、田之浦村の2ケ町5ケ村を昔より浦辺地方と総称するは、床の浦明神が鎮座し給へるより床の浦の浦をとりて、浦辺と云 ひしなり。往古は社領165石を領し、下社家2人大宮司ありき、神徳広大にして、海上安全諸病を鎮め給ふる霊験誠に顕なり、(中略)聖武天皇の御宇天平8 年疱瘡初めて我国に感染し、全国に流行せり、時に此神に祈りて疱瘡全治せざることなし、(中略)御社は昔は城山の地にありしを浦宗勝公此地に築城の際現今 の社地に遷座奉れり、爾来浅野長治公の修築あり、殊に霊験顕かなるを以て遠近尊崇者多く、文政2年社殿改築に際しては、松平安芸守、藩主並びに大内家三次 侯の造営修覆を初めとして予州松山侯は、疱瘡に付き厚き信仰を以て石灯籠1対を献備せらる其他諸国人よりの奉納物現存する皆御神徳顕著なる所なり」と記さ れている。
床浦神社の前に建つ常夜灯は、この文にもあるように、伊予の国松山侯の寄進したものであることが明らかになっているが、鳥居は文化年中に播州室津住、湊屋茂兵衛が寄進している。
床浦神社が広い信仰を集めていたことを示している。
宮床祭はそれを現在に伝えている。
また『忠海案内』には、床浦を詠んだ和歌が3首記されている。
床の浦 我が身こす波 よるとても
打ちぬる中に 通ふ夢かは 為家
屋々とのみ 枕の上に 塩たれて
煙たえせぬ 床の浦かな 相模
さほ姫の とこの浦風 吹ぬらし
霞の袖に かかるしら波 光徳
この歌を詠んだ為家とは、藤原為家で、鎌倉時代の歌人で『続古今和歌集』(20巻)の撰者、『十六夜日記』を書いた阿仏尼は為家の後妻である。
相模は、平安時代末期の女流歌人、歌作はさほど多くはないが、名声は聞こえており、順徳院の『八雲御抄』にも紫式部とならべて「昔はぢぬ歌人」と記されて いる。また『小倉百人一首』には「恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ」という歌が選ばれている。
光徳については、定かではないが、河出書房版『日本歴史大辞典』によると、「光徳院は、足利14代将軍義栄のこと」とあるのでそうかもしれない。なお、為家、相模についても河出書房版『日本歴史大辞典』並びに野ばら社『百人一首』を参考にした。