いとこの節くん(旗手節人氏)から『忠海再発見』のHP「阪田桃雨の句碑」をみて、阪田寛夫の娘である内藤啓子の著書『枕詞はサッちゃん-照れ屋な詩人、父阪田寛夫の人生』を紹介された。早速購入して読み進むと、祖父阪田素夫についての記述があるので紹介しよう。
「祖父、阪田素夫は広島県の忠海に生まれた。ハイカラな伯母さんがいて、五歳の甥を新しく出来た広島市の幼稚園にいれた。ここで祖父は、生涯愛しつらぬいた二つのもの、キリスト教と西洋音楽に初めて出会った。
曾祖父が始めた大阪のインキ工場が軌道に乗り、阪田一家は広島から大阪に移り住んだ。家族はキリスト教とは無縁だったが、次男の素夫は中学二年の時から教会へ通い始めた。そのきっかけとなったのは、クリスチャンの友人と訪ねた牧師宅で感銘を受けたことで、その家のようなキリスト教の愛と音楽の溢れた家庭を作ろうと祖父は思い描いていた。1904年、中学3年で大阪教会の宮川経輝牧師より洗礼を受けた。
その後東京工業学校(現東工大)で応用化学を学んだ祖父は、卒業と同時に大阪に呼び戻されインキ屋の若大将となった。同じ大阪教会でオルガンを弾いていた大中京と結婚、長屋の新居は教会の聖歌隊の練習場となった。以来、週に一度自宅で聖歌隊の練習をする習慣は、祖父が亡くなるまでずっと続いた。
祖父は、新聞印刷に使う高速輪転機用のインキを研究開発し成功、店を大きく発展させた。もう一つ祖父の代になり阪田商会(現在のサカタインクス)が変った点は、キリスト教の強い影響である。店を内側から精神的に高めたいと願った祖父は、新聞インキ製造業の目的は隣人を愛することに在るという店是を作った。(中略)
白髪頭と頻尿の癖以外は祖父に似ておらず、祖母の大中家の系統の顔だとずっと思っていた父だが、古い写真を整理していて出てきた曾祖父・阪田恒四郎の写真を見て驚いた。曾祖父は痩せて当時としては背の高い人だったそうだが、父が若い頃と晩年の痩せてからの顔に実によく似ているのだ。
曾祖父は『山気』のあった人のようで、広島から大阪へ運送業を始めようと出てきたのに、偶然居酒屋で出会った男からこれからは新聞社相手のインキ屋が儲かるという話を聞き、彼を雇い印刷インキの製造を始める。
阪田商会は新聞社の拡大と共に繁盛しだしたが、曾祖父は、息子が一人前になると、さっさと40代で隠居をしてしまう。
それからは俳句を詠み、吟社を主宰し、人から桃雨宗匠と呼ばれるようになった。もっとも吟社の主な門弟は店の番頭や店員、息子とその嫁たちであった。
数年前、従姉妹たちと阪田のルーツをたどる旅をして、広島県竹原市の忠海まで行ってきた。瀬戸内海を見下ろす城跡に建つ曾祖父の句碑も見てきた。
「浦の名の花や誉れの古城跡」
「浦」というのは、昔その城にいた殿様の名前だそうだ。素人目にも、そんなにうまい句とは思えないが、その句碑は、1936年曾祖父八〇歳の誕生日を祝うために祖父やその兄弟たちが金を出し合い親孝行して建てたものだそうだ。『阪田小路』という横丁の名残も見てきた。その昔、阪田小路にあった家の格子の陰から曾祖母が見ているとも知らず、曾祖父は浮気相手の芸者さんを連れてその前を通って行ったという。
しっかり者の曾祖母に大阪の店を任せ、曾祖父は一年間広島に帰ったこともある。資金繰りの口実だったが、実は浮気相手に会っていたのだ。
器用貧乏で酒飲みだったこと、仕事を早くに辞めて俳句に没頭していたこと、浮気に対して後年曾祖母の意趣返しを受け(おそらく)神経性の下痢に悩まされ続けたことまで曾祖父と父は似ている。
阪田の一族は気弱なのに「山気」がある人間が多く、成功した者は曾祖母の血を多く引き、ダメな者は曾祖父の血を受け継いでいると言われている。
(内藤啓子著『枕詞はサッちゃん』P49~53)