最近、政治経済評論家として活躍している佐高信が『司馬遼太郎と藤沢周平という本を書いている。その第1章は、「両者の違い」となっており、司馬は「上か らの視点」、藤沢は「市井に生きる」と評されている。そのなかに「同じ人物・『清河八郎』をどう描いたか」という項があり、佐高は次のように書いている。
「司馬遼太郎と藤沢周平が共に小説の素材にしている人物がいる。幕末の志士、清河八郎である。司馬は短編で『奇妙なり八郎』(文春文庫『幕末』所収)。藤 沢のほうは長編の『回天の門』(文春文庫)だが、藤沢は『あとがき』に清河を『誤解されているひと』だとし、『山師、策士あるいは出世主義者といった呼び 方まであるが、この呼称には誇張と曲解があると考える』と書いている。‥‥‥そして、八郎を『(山師や策士という)その呼び方の中に、昭和も半世紀をすぎ た今日もなお、草莽を使い捨てにした、当時の体制側の人間の口吻が匂うかのようだといえば言い過ぎだろうか』と書く。それは、あるいは、司馬への抗議では ないのか。というのは、あまりにも司馬の描く八郎が『草莽を使い捨てにした体制側の人間』の立場に立って書かれているからである。」(佐高信『司馬遼太郎 と藤沢周平』P37~39)
この二つの小説に池田徳太郎が登場する。清河八郎は幕府に働きかけて浪士組を組織し、「将軍を警護するため」と称して京に上るが、京に着くと「われわれ一 党が上洛したのは将軍警護のためではなく、尊王攘夷の先鋒たらんため」だとして天皇への上書を差し出すことを提案し、同意を求める。この場面に池田徳太郎 が登場する。
司馬遼太郎の『奇妙なり八郎』には、次のように書かれている。
「清河が、浪士たちにとって驚天動地の放れわざをやったのは、その到着の夜である。浪士一同二百余名を壬生新徳寺本堂にあつめ、本尊阿弥陀如来を背にしてすわり、『諸子に、わが浪士組の本意を告げる』といった。『なるほど、幕府の召募によってわれわれは京にのぼってきた。
が、浪士はあくまで浪士であって幕府の禄位は受けておらぬ。当然幕府の施策に対して自由である。われわれは幕府を奉ぜず、尊王の大義のみ奉ずる』これに は、一同驚いた。もともと、近く上洛する将軍家茂の身辺守護と京都における浮浪浪士の鎮圧のために召募されたのではないか。
が、清河はさらに語を継ぎ、『もし皇命をさまたげる者があれば、たとえ幕府の高官なりとも容赦なく斬りすてる』たとえば皇命に反すれば守護職、所司代とい えども斬る、というのである。いいかえれば幕府よりも上位の新機関がここに樹立したわけであり、ついに清河の野望が達せられた。清河はこの瞬間、事実上の 新将軍になった。あとは浪士組の名において天皇を擁しさえすればよく、その手は、むかし木曽義仲をはじめ織田信長、豊臣秀吉などの歴代の覇王がやってきた ところである。『ご異存あるまいな』ひざもとに七星剣をひきつけ、左右に腹心の石坂周造、池田徳太郎が、万一斬りかかる隊士があればたちどころに斬りすて る身構えでいる。一同、気を呑まれ声もなかった。『ご異存なければよし、明朝闕下に勅諚を請い奉る』」(司馬遼太郎『幕末』P80~81)