2001年6月19日の『中国新聞』に「大谷探検隊ミャンマー-雲南ルート裏付ける収集品5点確認」という記事が掲載された。それによると「20世紀初 頭、西本願寺門主・大谷光瑞がアジア各地に派遣した『大谷探検隊』のうち、資料がすべて散逸し、実態が不明だった探検ルートを裏付ける収集品5点が見つ かった。(中略)この収集品は1903年のミャンマー-中国・雲南ルートの隊員だった野村礼譲(1878-1930年)が、生家の岐阜県神戸町の正願寺に 持ち帰り、東京都内に住む次女の遠藤康子さんと次男の妻野村美佐子さんが譲り受けていた。(中略)収集品は仏像や道教関係とみられる像などで、16-19 世紀ごろのチベット様が見られる青銅製の密教像3体(高さ9-16㌢)が含まれていた。チベット文化の影響が強い中国雲南省で入手した可能性がある。大谷 探検隊は、光瑞自身が参加した西域ルートについては研究が進んでいるが、このルートは報告書や収集品がまったく残っておらず、隊員5人の消息も不明だっ た。今回、遠藤さんの話や正願寺の資料から、礼譲の当時の足跡や竹原市・忠海中(現忠海高)の校長などを歴任したその後の消息も分かった。」ということで ある。
そこで『忠海高校創立80周年記念誌』を紐解いてみると、野村礼譲は旧制忠海中学校第6代校長で、大正9年(1920年)11月から大正11年(1922 年)5月までの間校長に就任しており、大正11年には忠海中学校創立25周年記念式を挙行し、校訓、校歌、校旗制定、帽章改正、記念文庫設置などの記念事 業を行っている。(『忠海高校創立80周年記念誌』P53~55)
また大正13年(1924年)に忠海中学校を卒業した中島武三氏は、その「回想」の中で、「校長野村礼譲氏は私らが1年生の時、久邇宮事務官として赴任せ られ、当時多くの記者が取材に来たので、先生達は驚いておられた。入学当時の校長藤原正氏は、安倍能成や、華厳の滝で自殺した藤村操と一高時代に同級で、 校長室でカントの哲学書を訳しておられ、進学希望の生徒に自分の部屋で特別教授をしておられた。」(『忠海高校創立80周年記念誌』P192~193)と 述べている。種田織三初代校長をはじめ旧制忠海中学校の校長がそれぞれの学問分野を究めた人々であることを伺わせる一文である。
ところで、明治35年(1902年)の大谷光瑞の探検計画は壮大なもので、ロンドンを出発して、中央アジアの仏教遺跡を調査し、さらに南下して、北インド に抜け、インド全域の仏教遺跡を調査した後、さらにビルマ(現在のミャンマー)から北上して中国の雲南・四川を経て上海に出るのが当初の計画だった。ロン ドンを出発して1万5000キロメートル、調査の対象となる仏跡は294カ所と、当時の西本願寺の機関紙『教海一瀾』は発表している。光瑞はこの計画に 沿って隊員の人選を行い、それぞれのルートに配置した。この時のビルマ-雲南ルートの隊員は渡辺哲乗、吉見円蔵、前田徳水、野村礼譲、茂野純一の5名で あった。このことは白須浄眞著『忘れられた明治の探検家渡辺哲信』(中央公論社)という本に書かれている(P156~157)
この本の主人公である渡辺哲信は三原市西町の浄念寺の出身で、ビルマ-雲南隊に参加している渡辺哲乗は、哲信の弟である。 なお、大谷光瑞については角川文庫から、津本陽著『大谷光瑞の生涯』という本が出ているので一読されたい。