『村上海賊の娘』では、本願寺への兵糧入れのために、毛利水軍と村上水軍が忠海の賀儀城に集結する場面が描かれている。この小説に登場する水軍の将の個性を実に巧みに描いているので紹介しよう。
能島城から賀儀城までは北西五里(約20キロ)とさほどの距離はない。元吉率いる三百の船団は、日のあるうちに賀儀城に着き、毛利家の船団と合流した。本願寺への兵糧入れに参加する船は、これで打ち揃った。『陰徳太平記』や『石山軍記』によると、毛利家が集結させたこの船団の総数は一千艘であったという。海に臨んだ賀儀城の本丸からは、左右の浜と海原をびっしり埋め尽くす大船団が見渡せた。
城主の乃美宗勝は、能島村上の船団三百が到着するや、本願寺から依頼された兵糧十万石のうち、積み残した分を能島村上家の船に入れさせ、翌日、積み込みが終わると、ただちに岩屋へ向け、出航を命じた。合議の上、先鋒は児玉就英、中軍に能島、来島、因島の三島村上、後陣は宗勝とし、途中で、毛利家と交誼を結ぶ備前国(岡山県南東部)の宇喜多直家の船団も合流することになっていた。
「帆を張れ!」一番手の就英は、大音声に下知した。昨日、能島村上家が参じた際、就英は主将の村上元吉の関船に乗り込んで遅参を詰り、さんざん小言を言った。相手はむっつりと黙りこくっていたが、横で弟の景親が眉を八の字にして平謝りに謝るので胸のつかえも少しは下りた。今日は意気揚々と命を放っていた。児玉家が出航すれば、次は能島村上だ。関船の甲板にいた元吉は、もちろん就英の命を聞き咎めている。「また言っておる。帆は上ぐると申すのじゃ」眉を顰めた後、「帆を上げよ。児玉家の船団に続くのだ」ことさら「上げよ」を声高にして兵に下知した。続く来島村上家の吉継も、関船の上で出陣を命じると、断崖上にある賀儀城の本丸を仰ぎ見た。本丸には、まだ宗勝がいるはずだったが、その崖縁では宗勝に並んでもう一人、痩せた男がいた。(あれは小早川隆景か)昨日までは見かけなかった宗勝の主人だ。能島村上の参陣を聞き付け、急遽、居城の新高山城から来訪したものらしい。軍議には間に合わなかったのだろう。陪臣である吉継は、隆景に直接声を掛けるのを憚った。「宗勝殿、さればお先に」「吉継殿、では後ほど」宗勝も笑顔で返した。が、この禿頭は、来島村上の船団が動き出すと急に真顔になって横の隆景念を押すように告げた。「殿、わしもそろそろ船を出しまするぞ」隆景は難波には行かない。思案顔のまま「ああ」とうなずいたが、諦め切れぬかのように、「謙信はまだ動かぬか」と訊いた。
実は隆景は数日前から賀儀城に入っている。陸路よりも海路の方が情報は断然早く届く。上杉家から発せられた書状が内陸の日野山城にいる吉川元春に届く一月以上も前に、能島の武吉へ風聞が届いたのもこのためであった。それゆえ隆景もこの海の城に乗り込み、吉報を待ちつつ密かに宗勝と策を練り続けてきたが、ここでも謙信が信長打倒の気勢を上げているとの風聞ばかりで依然、出陣したとの確報は入らなかった。「最前、申し上げた通りにござるな。報せなど来てござらぬわ」宗勝は古強者の遠慮のなさで、あからさまにうんざりした顔をして見せた。「やはりないか」肩を落とす隆景に、宗勝は、「よいのですな」と釘を刺す。隆景は渋い表情ながらも、「うむ」とうなずいた。隆景は誰にも明かさず、非常の決断を胸に秘め続けていた。重臣の宗勝でさえ、主人の決断を聞かされたのは、つい最前のことである。宗勝は溜息を吐き、「殿よ、斯様な御存念ならば、早うわしにもお伝えくだされば良かったのじゃ」と苦情を洩らしたが、その決断をはるか以前に読み切っている者がいると承知していた。「もっとも能島の武吉殿は、殿の心中を見透かしてござったがな」宗勝は大海原を東進していく数百艘ごとの船団を眺めながら、そう明かした。
(和田竜『村上海賊の娘』下巻P129~131)
この小説で宗勝が実に生き生きと描かれている場面が信長方についた泉州海賊眞鍋道夢斎との合戦である。
鶴翼の陣に取り込まれた眞鍋海賊は、いまだ苦戦の中にいる。道夢斎が乗った安宅も、左右から次々に投げ込まれる焙烙玉に防戦一方となった。道夢斎も兵にまじって桶から海水をぶちまけていたが、火は鎮まらない。甲板一面に広がりつつある炎を前にして、「こらあ、洒落んならへんわ」と喚いたが、さすがに一代で泉州一国の海賊をまとめあげた男であった。戦意は失っていない。言葉には生来の陽気な色が籠もっており、愉快がるゆとりもなくしてはいなかった。ふと船外を見やり、「おっ」と首を突き出し目を輝かせた。安宅の左舷に近付いてくる敵の関船に、嬉々として焙烙玉を投げてくる禿げ頭がいる。兜は被っていないが、具足を着込んでいるから将であろう。爆風に仰け反っては、「うわっはぁ」と奇声を上げている。男には鼻の脇に傷痕があった。(中略)「なあなあ、あんた」道夢斎は船端から大きく手を振った。「ひょっとして乃美んとこの宗勝っつあんちゃうけ?」まるで幼なじみに出会ったかのように親しげである。敵とは思えぬ調子に宗勝は、「ん?」と思わず焙烙玉を投げる手を止めた。従う兵までが、きょとんとして固まっている。「いかにも乃美宗勝じゃが、わしの名を知っておるのか」問い返すと、安宅の大入道から望外の答えが返ってきた。「当ったり前やんけ。泉州の海賊で宗勝っつぁん知らん奴なんぞいてへんで。厳島の合戦でもええ働きしたらしやんけ」瀬戸内からはるか離れた泉州の敵は、二十年以上も昔の武功を覚えていてくれた。「うれしや」宗勝の顔がそれこそ二十も若やいだように晴れ渡った。「左様、厳島に陣取る敵の船団の真っ只中に紛れ込み、大胆不敵にも日の出を待ったは、誰あろうこの乃美宗勝じゃ」堂々名乗りを上げ、「斯く申される貴殿は眞鍋道夢斎殿じゃな」と、確かめた。今度は泉州海賊が喜ぶ番だ。「わしのこと知ってくれてんけ!」「無論」宗勝が深くうなずくと、道夢斎は、「うれしよぉ」と狂喜した。大入道は、左舷からの焙烙玉が止んだのをいいことに、船端から身を乗り出し、「あのよお、宗勝っつあん」と、耳にした噂について呑気に問いを重ねた。「武器持たんと戦場に出るちゅんはほんまけ」このことは、当時の人にとっても奇異に映ったらしく『常山紀談』などにも記されている。前にも触れたが、豊前国の門司城の囲みを解いて帰国する毛利家の船団の中で宗勝はただ一艘引き返し、敵の武将、滝田民部を討ち取った。同書には、「定まりたる得道具もなく、滝田を討ちし時も人の鑓をとりて、返せしとぞ」とある。この禿頭は決まった武器を持たなかった。「斯様なことまで知っておられるのか」宗勝は苦笑しながら両腕を広げて見せた。腰に脇差一本があるだけだ。「いかにも。どの戦でも、この出立ちじゃ」と言うと、不敵に笑って付け加えた。「それゆえ道夢斎殿、貴殿の銛を賜りたい」-投げ突きして来い。そう宗勝は挑発している。「言うのぉ」禿頭の肝の太さに、道夢斎は感服した。難波海で景に会った際、宗勝のことを尋ねたのも、こういう古強者に出会いたかったからだ。「ほな」すぐさま傍らの葛籠から銛を引き抜き、宗勝の胴を目掛けて投げ放った。当時、銛の投げ突きはともかく、槍の投げ突きは奇抜なものではない。従って、それを掴み取る術も確立していた。だが、誰もができる芸当ではなかった。飛んで来る槍を躱し、追いかけるように半身を回して柄を掴み取り、そのまま一回転して槍の勢いを止める。宗勝は、この奇芸を銛を相手にやってのけた。迫り来る銛を、身を翻して避けざま掴み取った。くるりと腰を回し、再び道夢斎に相対したときには銛の勢いは消えている。「できるとは思わなんだわ」どん、と石突きで甲板を突き、にやりと笑う姿に、「大したもんやなあ」と道夢斎は目を丸くしたが、宗勝の次なる下知に目が覚めた。「焙烙を投げ込めっ」「そればっかしか」
(和田竜『村上海賊の娘』下巻P323~327)