2016年3月30日発行の伊東成郎著『新選組最終夜話』(河出書房新社)という本を岡山の書店で手に入れた。早速読み進めると、「第2章19 新徴組に入った新選組創始者たち 再生した民主的浪士組」という文章の中に池田徳太郎が登場するので紹介しよう。
「広島出身の池田徳太郎という人物がいる。人望も厚い優れた人物で、浪士組の計画に携わった清河八郎とは長年の同志だった。浪士組計画にも参画したが、江戸出発前に清河らとの決別を宣言、着京後、ただちに故郷へ戻り、父親に不義理を詫びた。
池田はその後ただちに、父親と叔母をともない京都へ戻った。孝行のため、京坂の見物に誘ったのである。
三月二十日に池田が京都に入ったときはすでに浪士組は江戸に戻った後だったが、残留していた根岸友山や清水吾一ら新選組創設者たちと再会し、酒肴をともにしている。
殿内義雄が四条大橋の上で近藤らに殺害されたのは、それからわずか五日後の、二十五日夜半のことだった。
池田は直前に殿内とも懇談しており、事件を知ったときの動揺は、半端なものではなかった。五月二十一日に、池田が、清水や根岸に送った手紙には、
折悪しく殿内義雄の変事、右老父、老叔婆と面会仕り候ことこれあり、昨日面会の殿 内、ただ今は斬害せられ候ようにては、京師も殺気動き、なかなか居るべき地にてはこ れなしと一同に肝を潰し、大いに狼狽仕り、早々正子を引き連れ、大坂へ引き取り申し 候ことに御座候。
それより、引き続き関東立ち退きの消息などあい聞こえ申し候につき、東下のことも 禁じられ候ことに候。 (一九二六「浪士組の領袖池田徳太郎より江戸の諸隊長に贈り し手束)
と綴られている。池田は、多年心配をかけ続けた老父の言葉に従い、このあと再び広島へ戻っていった。以後、同志たちから執拗に要請されたものの、決して江戸へ戻ることはなかった。
殿内の殺害は、芹沢と近藤らを支持していない新選組創設者らにも恐怖心を与えた。根岸友山、清水吾一、遠藤丈庵、鈴木長蔵、神代仁之助の五名は、近藤らに伊勢参りに行くと伝え、そのまま江戸へ戻った。
彼らが江戸で頼ったのは新徴組である。
浪士組が江戸に帰還したのち、幕府は提案者の清河八郎を殺害し、計画に携わったその周辺の同志らを拘束した。将軍の上洛にあわせて、京都の治安維持を目的に集めた浪士組を、京都の反幕府派勢力を通じてただちに帰府させた清河は、この集団を自分の意図する攘夷活動に転用しようと目論んでいたのである。
宙に置かれた形になった浪士組は、その後、江戸の治安活動を担う庄内藩の指揮下に置かれた。清河が処断された二日後の四月一五日には新徴組の隊名が与えられ活動が開始された。
慌てて帰府した根岸ら五名は、旧知の者たちが数多く在籍する新徴組に入った。」(伊東成郎『新選組最新夜話』P125~127)
この文章は、この『忠海再発見』で紹介した清河八郎と袂を分かってからの池田徳太郎と浪士組、新徴組、新選組とのスタンスを知る興味深い文章なのでここに紹介した。