2017年1月17日の『中国新聞』に「里山と里海の文化どこへ-石風呂の終業」と題した印南敏秀愛知大学教授の石風呂についての記事が掲載された。石風呂の持つ歴史的文化的意義を改めて問う内容なので抜粋して紹介しよう。
昨年11月、瀬戸内の文化を代表する竹原市忠海の石風呂「岩乃屋」が「終業」した。廃業ではなく終業としたのは、岩乃屋主人の稲村喬司さん自身であり、「一人で75歳まで続けてこれたことに対する自負だ」という。
終業直前に訪ねると、新聞報道などで初めて知ったいちげん客が押しかけ、常連が遠慮するほどだった。直前の休日には、広い駐車場に入れず帰る客がいたという。消えることが決まって初めてその価値に気づくのは、庶民文化ではよあることである。
石風呂は、瀬戸内を中心とした伝統的な熱気浴施設である。(中略)
石風呂はシベリアから朝鮮半島を経て、日本に伝わったと考えられる。伝承で最も古い京都市の「八瀬の釜風呂」は天武天皇が壬申の乱(672年)の戦いで負った背の矢傷を治したので地名が八瀬(矢背)になったという。(中略)
日本の石風呂は、温泉が少ない瀬戸内を中心に500カ所以上はあったと私は考えている。特に多かったのは朝鮮半島に近い山口県で、昭和30年代の調査では約300カ所。佐波川流域が目立っていたのである。
古代の社会救済事業は僧侶が中心だった。僧重源は、焼き打ちにあった東大寺再建の責任者となり、佐波川上流域から用材を切り出した。今も佐波川上流には国指定史跡「野谷の石風呂」が残る。野谷の石風呂は、困難な作業で傷ついた工夫のため重源がつくったという。
佐波川流域の石風呂には重源がつくったという伝承が多いのである。瀬戸内の石風呂には、行基や弘法大師ら高僧にまつわる伝承もある。
近世になると、広島、福山、高松、徳島などの藩主が石風呂で湯治をし、武家への石風呂普及を促す。村でも社会経済が発達し、石風呂をつくって運営を始めた。城下や町場では、石風呂による湯治場の経営者が登場する。
こうした庶民への石風呂普及の背景には、石積み技術や里山の松、里海の海藻など瀬戸内文化の成熟があったのだろう。石積み技術は棚田や段々畑、塩田、港湾などを築くのに必要で、石風呂が多い山口県には石積みの石工が多かった。石風呂は、浴室内で松の枝木を燃やしてあたため、海藻を敷いて入る。枝木だと松を伐採しなくてもよく、持続可能な燃料となった。海藻はエビや小魚など海産資源の「ゆりかご」で、麦やサツマイモの畑の肥料として瀬戸内の過密人口を支えた。
常連を中心に石風呂の再生を望む声は多いものの、稲村さんは枝木や海藻が入手できない現状では難しいという。戦後の高度成長期に自然も生活も激変し、伝統の保護と継承は容易ではないのである。
そのことは2015年に改正された瀬戸内法の「きれいで、豊かで、にぎわう瀬戸内海」の目標とも連動している。瀬戸内法の目標も石風呂再生も、伝統的な自然や生活についての科学的な評価と、新たな時代に向けた総合的な取り組みが必要である。
同時に立場を超え、皆で協働する必要がある。稲村さんには豊富な経験をもとに、元気で知恵を出し続けてほしいと願ってやまない。