前号で紹介した「毒ガスの苦しみ共有」という記事を書いたのは中国新聞竹原支局の山田祐記者だが、その山田記者が『中国新聞』の「オピニオン・記者縦横」というコーナーに「忘れてならぬ毒ガス禍」という一文を寄せている。そして、この記事に対して「中国新聞を読んで」というコーナーで東広島市地域福祉推進協議会委員の高橋百合子さんが「毒ガス禍体験継承の道は」という一文を寄せている。共に大久野島をもつ忠海にとって貴重な提言なのでここに再掲することをお許し願いたい。
忘れてならぬ毒ガス禍 中国新聞竹原支局山田祐記者
「年を重ね、体が弱った。会の運営これ以上は難しい」「会員の安否も把握できない」-。大久野島(竹原市忠海町)で毒ガス製造に従事させられた人の団体の現状を聞くため、竹原、三原、尾道市を訪ねて回った。当時の所属や地域によってつくられた団体は9つ。多くが高齢化で解散の危機に直面している。
元学徒でつくる「旧忠海分厰動員学徒の会」は4月、竹原市に解散届を出した。90歳になる会長男性の体調不良で、慰霊祭などの情報が会員に届かなくなっていた。後継者が見つからず、解散を決断せざるを得なかった。
健康管理手帳を持つ被害者の平均年齢は88歳。日本の平均寿命の83歳を上回る。慢性気管支炎などの後遺症がありながらの年月の重さを思うと同時に、「負の遺産」の歴史継承のために残された時間の少なさも突き付けられる。
広島の被爆者と違って、毒ガス被害者の「2世の会)はない。旧日本陸軍から口外を禁じられていたことや、「加害の歴史」の側面が負い目となって活動の広がりを妨げたという。行政による証言の記録も十分とは言い難い。
一方で、資料展を開いたり、証言活動の手助けをしたりして、地道に継承を続ける市民グループがある。約90人のメンバーは平均65歳。被害者よりも若い世代が活動する。平和の貴さをこどもたちに伝えるためにも、世代や地域を超えた取り組みの輪が広がってほしいと強く思う。(『中国新聞』2016年6月10日)
毒ガス禍体験継承の道は
東広島市地域福祉推進協議会委員 高橋百合子
私の父は被爆者であり、大久野島の毒ガス被害者でもある。1940(昭和15)年から毒ガス製造所(東京第二陸軍造兵厰忠海製造所)で毒ガス兵器の検査係をしていた。41年に招集され朝鮮半島に赴いたが、2年後に胸膜炎を発症して帰国した。その後は川源村(現東広島市豊栄町)で暮らし、45年8月4日、広島市の建物疎開作業に行く直前、父ともう1人は「2人はここへ残って年寄りと子どもを守るように」と指示をされ、作業隊から外れた。
広島に原爆が落ちた後、父は列車で運ばれて被爆者を向原駅へ迎えに行き、家族を呼びに戻るため、さらに遺体を運ぶため自転車と馬車で何度も往復した。近所の家族と親戚を捜すために入市被爆。1人の生存を確認したものの、何日もかかって見つけた7人の遺体を河原で火葬したそうである。生涯父は、毒ガス後遺症の慢性気管支炎で苦しんだ。それでも人に恩返しをするといって150組の縁談を成立させた。
6月10日付オピニオン面「記者縦横に「忘れてならぬ毒ガス禍」の記事が載った。毒ガス製造に従事させられた人の団体は、所属や地域によって9つあるが、その多くが高齢化で解散の危機に直面しているという。毒ガス被害者の「2世の会」がないのも歴史継承が難しい要因であるらしい。90人の市民グループが資料展を開いたり、証言活動の手助けをしたりして体験の継承を続けているとの内容である。私自身、毒ガス被害者の2世だということをあまり意識していなかった。
広島県被団協から被爆2世部会を立ち上げる話などがあり、昨年の定期総会に出席した。こちらも2世の組織化や活動を活発化しなくてはならない状態である。(中略)
みんなで戦争のむごさについていま一度考えるために、私の住む豊栄町安宿地区では、7月22日、84歳の語り部の方に被爆体験の証言をお願いしている。できる範囲内で努力して平和につなげたい。