竹原書院図書館の『としょかんだより』№123(2014年2月1日号)の「郷土資料紹介」に向井博昭著『広島県内の江戸時代の参道狛犬』という本が次のように紹介されている。
「狛犬の起源は古代インドの仏の守護獣としてのライオン像」とあります。あの『枕草子』にま記述があり、国宝・雪舟筆『天橋立図』にも描きこまれている狛犬。これほど歴史のある狛犬ですが、そこにいることさえ気付かれず、どれも同じではとの先入観からか、なかなかじっくり見る機会はありません。
著者向井博昭氏は広島県内の神社をめぐり、江戸時代の334対の狛犬を調査し、全写真付きで、年代、大きさ、石工名、コメント等とともに記載しています。形態はいろいろで、お座り形、玉乗り形、仕切り形等。顔つき、体つき、毛並み、尻尾等、本当に種々様々な狛犬が鎮座しています。巻末には珍しい狛犬も紹介され、見ていて楽しくなるとともに、向井氏の狛犬への思いが伝わってきます。
狛犬は、平安時代には宮中や社殿の調度品として使われており、鎌倉時代になると神社・寺院の守り神として社殿中や回廊に、そして江戸時代になると社殿外、境内におかれるようになったそうで、それにともない木像から石像へ、大型になっていったとあります。また、良質な花崗岩が採れる尾道の「尾道石工」の存在により、変化に富んだ狛犬が造りだされたそうです。
これらの狛犬は形態の違いから1830年を境として文政以前(1711~1830)と天保以降(1831~1868)に分けて掲載されています。竹原市内では神社11カ所の12対の狛犬が記載されています。
この記事を読んで早速竹原書院図書館に行きこの本を借り出しました。その中から忠海の狛犬が紹介されている部分を抜粋してみましょう。
床浦神社の狛犬〈形式=仕切り・玉乗り、阿高=142.5㎝、吽高=147.5㎝、台座=117×55㎝、建立年代=文政十(1827)年、刻銘=丁亥「棟梁尾道石大工山根屋源四郎傳篤、姿型=迫力ある〉
忠海床浦一丁目の宮床海岸の西に床浦神社が鎮座していた。
文政10年(1827)に奉納され、尾道石工山根屋源四郎が造った仕切り形の狛犬が拝殿の前で頭を低くし、大きな目で睨んでいた。吽形は玉乗りの仕切り形、源四郎の中では一番大きく、高さ147㎝、うてなの長さ150㎝、厚さ45㎝もあり、地面から尾まで320㎝もあった。
巻きの入った大きな尾が頭の上まで反り、足には渦巻き紋が入り、圧倒される狛犬であった。文政以前では県内で初めて見える花崗岩で造った仕切り形の狛犬である。県内で、花崗岩の仕切り形の狛犬を最初に造った石工は山根屋源四郎ではないだろうか。この床浦神社の鳥居は文化3年(1806)に尾道住石工柄口屋和助が造っていた。
小丸居神社の狛犬〈形式=お座り形、阿高=80㎝、吽高=81㎝、台座=58×29㎝、建立年代=天保六(1835)年、刻銘=乙未八月「尾道石工宗八作」、姿型=風化が進む〉
忠海東町一丁目の小丸居神社は国道185号線、二窓踏み切り交差点の南に鎮座していた。本殿前に天保6年(1835)に奉納。尾道石工宗八が造ったお座り形の狛犬が座っていた。耳はへの字形で先が反り、鼻と口が尖り、三本の蝋燭尾に三個の渦巻きが入り、花崗岩だが風化が進んで刻銘も読み難かった。
穀神社の狛犬〈形式=お座り形、阿高=69㎝、吽高=66㎝、台座=52×31㎝、建立年代=文化二(1805)年、刻銘=丑二月、姿型=境内社(穀神社)砂岩風化が進む、大阪型〉
小丸居神社の境内社の穀神社には、文化2年(1805)に奉納されたお座り形の狛犬が座っていた。耳は垂れ、耳の下に渦巻きが二個入り、顔が大きく見える。鼻は飛び出て、五本の蝋燭尾に二個の渦巻きが入り、背中には背骨の彫刻が入っていた。砂岩のため、剥がれるように風化が進んでいた。大阪形の狛犬か。
八幡神社の狛犬〈形式=お座り形、阿高=82㎝、吽高=84.5㎝、台座=71×39㎝、建立年代=文化一三(1816)年、刻銘=丙子「尾道住堺脇氏石工和助作」、姿型=吽形に背骨の彫刻〉
忠海中町三丁目の忠海八幡神社は忠海駅から300・北の山裾に鎮座していた。参道の石段を上がると文化13年(1816)に奉納され、尾道石工和助が造ったお座り形の狛犬が座っていた。五本の蝋燭尾に三個の渦巻きが入り、たて髪は真っすぐでなく乱れ髪であった。吽形の角は三角形で、なぜか吽形だけ背中に背骨の彫刻が入っていた。その他、享保3年(1718)の鳥居の柱には開發八幡宮と刻銘が入り、本殿の扁額にも開發八幡宮と入っていた。
弁財天神社の狛犬〈形式=お座り形、建立年代=天保九(1838)年、刻銘=尾道石工宗八作〉
忠海中町二丁目の内堀公園の西側に弁財天神社が鎮座している。公園の場所は三次浅野藩の蔵米移出港として舟入堀が築かれ、堀の守護神として三次の岩上弁財天(十日市町厳島神社)が勧請された。これが今の弁財天神社である。
昭和初期の写真を見ると、神社の東側は舟入堀の石垣で、その奥に機帆船が停泊しているのが見える。堀は埋め立てられ、呉線の鉄橋から消防署前の間に僅かに残っている。
拝殿の前に、天保9年(1838)に建立され、尾道石工宗八が造ったお座り形の狛犬が座っている。耳は厚く横に波打ち、たて髪は直毛の乱れ、五本の蝋燭尾に五個の渦巻きが彫ってあった。