新谷道太郎について『忠海案内』は次のように書いている。
「弘化4年(1845年)御手洗大長村新谷慎十郎の長男に生れ、慶応2年(1866年)忠海町池田与兵衛の養子となれり。池田種徳(徳太郎)の諭に従ひ志 を立て江戸に上り、山岡鉄舟の門に入り、免許皆伝を受け、帰郷三原城主浅野公に聘せられ、精義隊の剣道指南となり後池田種徳と共に京師に上り、幕末の志士 坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、西郷隆盛、大久保利通等と交わり、又九條家、本願寺等に出入して、日夜王事に奔走し、鳥羽伏見の役には尊王近衛団の大隊 長として大活躍した。云々」
先日、誓念寺の土井さんから、うちの書庫を整理していたらこんな本がみつかったといって、『維新志士池田徳太郎補傳』という冊子を見せていただいた。
この冊子は澤井常四郎という人が昭和10年に書いたもので、緒言によるとその前年に澤井常四郎は『維新志士池田徳太郎』という本を著したが、その際90歳 という高齢で生きていた新谷道太郎翁がその発行を悦び、懐旧談をしてくれたその一部を記録したのがこの冊子であると書かれている。
興味深いところを抜粋してみよう。
「慶応3年2月、坂本龍馬は容堂公の命を受け薩長連合の大策を行おうと、土佐を出発して私の宅に来た。
私は龍馬の依頼に応じ行を共にすることを承諾した。海路馬関を目ざし折からの東風に関前灘を矢の如く走りその晩下関に着いた。一日に七八十里走ったのである。
上陸して知人の宿に泊り、高杉晋作のことを聞くと、二丁と離れない山の手に夫婦のみの二人暮らしであるが、行かれた處で容易に逢われる人ではない到底駄目だろうと言った。
翌日二人で玄関を訪れると、年の頃四十歳位と思われる中背の男が出て来て『高杉晋作はわしじゃが坂本龍馬に相談は受けぬ朝敵国賊帰りおろう。』とどなりつ けて取り合わぬ。二人は挨拶もそこそこに此處を出で『どうだ坂本君あの勢いではものにならぬ、つまらぬではないか。』『いやつまらぬものをつまらせるの じゃ、マアわしに任せて置け。』というようなことでその日一日をあちこち見物に暮らし、翌日朝食もそこそこに再び高杉を訪れた。このたびは女の人が取り次 ぎに出たので、昨日の通り来意を告げるとその後に高杉が出て来て『よう来てくれた、是非話したいことがある。サアどうぞ奥へ』とまるで昨日と打って変わっ た挨拶。それから奥へ通り愈々話を進めることになった。
高杉は『兎に角桂小五郎に話して見るから明日もう一度来て呉れ』ということで、その日はそれで辞し、翌日訪ねると『大体においてよかろう桂も俺も同意見 じゃ。だが薩州の方はどうじゃあの方が決定しない間は毛利候へ申し上げる訳には行かぬ。』『よろしい薩州の方は何とか運動してみよう』ということになり、 坂本は薩摩に向かった。(中略)3月18日恰も全島桃の花に包まれて、遊覧客に賑わう時土佐の坂本、薩州の大久保、芸州の船越、長州の木戸が私の宅(御手 洗)へ来たり、約束通り花見の宿を頼むと言うことであった。それから3日間寝るのも起きるのも四人一所で、何やら頻りに話していたのである。
何ぞ計らんこれこそ天下を覆す大策を練っていたのでこの時薩長連合が成立し土芸二藩がこれに加わるという誓約をしたのである。(中略)四藩の和親を取り結 ぶにはこれまで坂本中岡等を始めとして志士の奔走によって問題は漸次進展しておったが愈成功というまでにはなかなか困難で行き悩んでおった。
それで池田先生(徳太郎)は自ら長州に説き更に薩州に説き、密々の間に尽力せられたのである。その結果11月に入り薩長両藩から主命により数名のものが出張することになっているから、私にすぐ御手洗に帰っておれとの池田先生からの伝言であった。
それで私は11月2日に帰宅して待っていると翌3日の12時頃から池田先生、加藤多一、高橋大義、船越洋之助、星野文平が来たり、間もなく薩州の大久保一 蔵、大山格之助、山田市之丞の三人。長州からは桂準一郎、大村益次郎、山縣狂介の三人。土州からは坂本龍馬、後藤象二郎が来ての大集合となった。3日は会 合して酒を飲み夜を更し、何事もなくて寝に就き、4日早朝から5日6日まで協議の結果愈合同の決議ということになった。」
明治維新前夜の薩長連合が御手洗で成立し、忠海出身の池田徳太郎や新谷道太郎の活躍の様子がよく語り伝えられている文章である。