この忠海再発見では、大久野島をとりあげた戯曲として小山祐士の『日本の幽霊』を紹介しましたが、先日、吉田文五という人が書いた『中国芸能風土記』とい う本を読んでいると、同じく大久野島を題材とした戯曲に穂高稔の『ラザロの島』という戯曲があることが明らかになりました。以下『中国芸能風土記』から抜粋します。
「穂高稔は豊田郡大崎町の出身。彼は、青年時代に2年間、この毒ガス工場の見習工として働いた。終戦後は実家に帰って農業を手伝いながら演劇を勉強。1950年(昭和25年)に上京。のち劇団青俳に加入。演技者として舞台にたつと同時に劇作も手がけている。
小山祐士も穂高稔も広島県出身である。広島県出身だから、この大久野島の毒ガス問題を見過ごすわけにはゆかなかったのであろう。広島県出身だからこそ、自 分が書かなければという責任感、義務感みたいなものがあった、のではないか。 『ラザロの島』は、1972年(昭和47年)10月に、劇団青俳によって上 演された。ラザロというのは、手と足に布をつけたままキリストによって生き返らされた男の名。聖書の1エピソードに出てくる。
この劇の主人公の一人である見習看護婦の少女は、仕事の緊張感から解放されたとき、次のようにいうのである。
『うちのおじいちゃん、おばあちゃんが、新婚のころの島(大久野島)はほんまのパラダイスじゃったそうな。戦争に勝って平和になったら、砲台もイペリットもいらんけん、ほたらまた、この島が昔みたいなパラダイスによみがえるでしょう。じゃけん、ラザロよね。』
これでラザロの意味がはっきりする。
作者はこの悪夢の島の戦争中から現在までを、3つの時期に分けて描き、戦争という厳しい状況の中で生きてきた人間が、いかに平和を希求していたか、それは現在でも変わらないこと、それに対して戦争責任者たちがいかに無反省で厚顔で尊大であるかを、追求していた。
意図はともかくとしてこれも残念ながら世評は高くなかった。
ともあれ、国民休暇村大久野島はむごい歴史を秘め、2つの新劇を生み、明るく平和ムードにあふれて、忠海の沖合に浮かんでいる。」(吉田文五『中国芸能風土記』)
上演当時の『中国新聞』にこの劇のあらすじと穂高稔が紹介されていたので、あわせて紹介してみましょう。
「舞台の1幕では、昭和17年春、大東亜戦争勝利のためと毒ガス島で働く人々の姿や、戦争さえ終われば、この島にも自分たちにも平和な日々訪れると信じて いる若者、見習い看護婦のすみ(榊原史子)と幼なじみの工員一郎(上林詢)を中心にした毒ガス島の実態が描かれた。次いで2幕は、戦後15年が過ぎたこ ろ、毒ガス後遺症が大きな社会問題となり、木村功の吉田富三教授をゲストに、忠海共済病院長、広島大医学部などの科学者たちの研究討論会と、忠海共済病院 の一室で後遺症に悩む毒ガス障害者の実態が浮き彫りにされる。そして3幕、毒ガス障害に苦しみ抜いて死んだ夫の遺骨を抱いて、すみは表面平和な島に生まれ 変わった大久野島を訪れ、かつて戦争の悪夢にさいなまれ、毒ガス障害者としていまなお底辺の人間が放置されているのに、レジャーに浮かれ、次の戦争の足音 に気づかぬ人々の群像を、まのあたりにして次第に錯乱していく-穂高演出は、俳優個人の演技力、見せ場を極力抑え『告発調』に流れるのを避け、重いやり場 のない余韻を残している。(中略)
穂高は、これが3作目の作品で、劇団青俳は3年前の『神通川』でイタイイタイ病問題を扱って以来久しぶりに全員出演で取り組んだ問題提起作である。反響を みるにはしばらく時間が必要だろうが『毒ガス障害者の現実を、自分の問題として考える人が一人でもふえるならば‥‥』と穂高は控え目だ。
毒ガス島の見習い工から予科練へはいり、違った戦争体験を経て俳優となり、忘れられない毒ガス島に5年間をかけた。地元竹原市の医学関係者や障害者の会が 資料を寄せ、死亡患者の遺族が舞台の小道具にと遺品の人工声帯まで提供したというエピソードが、一人の俳優の人間味のある取材ぶりを物語っている。」 (『中国新聞縮刷版』1972年・№75)