最近、中国新聞社が水原史雄著『安芸門徒』という本を復刻しました。 その中に、明泉寺10世住職・護命が「芸轍=安芸門徒の旗手たち=時代遅れの反骨者」として紹介されています。
「明治3年(1870年)9月14日、72歳で死んだ。臨終のもようを語ってくれる生き証人はもういない。語り伝えもない。おそらく平凡な死にざまであろ う。浄土真宗という庶民仏教のリーダーらしく。 護命である。その名もさほど知られていない。彼が10世住職をした今の竹原市忠海町の明泉寺の門徒にしても『僧深さんなら聞いたこともあるが』という。
僧深は同寺11世住職で、護命の3男にあたる。明治32年(1899年)まで生きており同寺の現住職藻塩卓哉氏の母、松子さんも『私が9歳の時に死んだ実 父。厳格で、政治が好きで、板垣退助さんらとともに自由民権運動をやっていました』となつかしがる。政僧だった。彼が政治にかかわったのは『どうも護命の せいらしい』と藻塩氏の姉、百合子さんは語る。 つまり、僧深の結婚問題をめぐって親子間にトラブルがある。門徒総代の世話で、見合いをした女性と嫁いで来た女性とは別人だった。僧深は怒り、上京して政 治運動に走る。」
「異安心=平たく言えば、間違った信仰。理論的な宗義である真宗においては、特にそれが問題視され、問題視されることによって宗義が発達した。本願寺派に とって、その大きなヤマが江戸後期の三業惑乱であり、以後、宗義は信心正因、称名報恩に定着した。つまり、念仏を唱えることは、救われていることに対する 報恩行-という解釈である。 ところが問題は残っていた。救われるのは人間で、救うのは仏であるが、その関係が完成する場所はどこか-という点である。大論争は芸州で起こる。信相論争 という。
(その内容は)了厳が『救いは仏の中で完成されている』と強調していたのに対し、泰厳がクレームをつけたのが発端だった。泰厳の意を受けたのが、彼の同門 である護命で『いや、救いは人間と仏が出合ったところで完成する』と反論した。 時に万延元年(1860年)の秋。護命は62歳で、泰厳より4歳、了厳より13歳年長。そのうえ、3年前に同年齢の西本願寺広如から、芸備両国の宗法取締 役を命ぜられていた。また芸州西部の異安心の取り調べに一役買った功績があり、今回の論争には自信をもっていたようすがうかがえる。
同年12月21、22、23日の3日間、広島の専光寺で、難者護命、答者了厳というかたちで対論となる。判者は当時、芸州における最高学位詞教の浄真と泰 厳が当たっている。対論後も、1年以上にわたって、両者は著述合戦を繰り広げる。その結果、護命の著『原故信躰弁』に展開された行き過ぎの理論を本山で問 題視し、糾明対象にする。
文久2年(1862年)11月、護命の回心状提出で論争は終わる。 護命の行き過ぎとは『救われる側の主体性をなんとかして論理づけるために、真宗らしくない発想まで持ち出した点にある』と信相論争の研究家である亀井尊麿氏は説明する。」
「いつの間にか真宗教団を巻き込むかたちで日本史は動乱期になっていた。護命対了厳の対論の前年、吉田松陰らは処刑され、親交のあった周防の勤王僧月性 は、その前年に死んでいた。本願寺派の幕末のパスポートを握っていた月性の死に、広如宗主はいっそう不安を深めていたという。」(水原史雄著『安芸門徒』 復刻版P156~158)
護命とその息子僧深については、『忠海案内』の人物誌の中に記載されています。ここでは、僧深の記述を紹介しましょう。
「俊傑僧深は、幼より大志あり。猫大の郷関において、逡巡するを潔しとせず。当町民権自由の声次第に喧しかりけるが、国民一般に立憲政治に関する思想皆無 なるを歎き、これが啓発普及を計る目的をもって、夙に政界に身を投じ、自由党の総裁板垣退助を始め島田三郎、鳩山和夫、河野広中、井上角五郎等の政客と親 交あり。
また僧深は、文化の先覚者にして、当時の官僚藩閥の徒が、天下の政治を自己の手中に壟断して、而も政治と宗教的並びに教育とを、個々に分断せるを慨歎し、 自ら率先して、普通選挙を唱導し、また旧来の陋習を打破して、民族的階級的僻見を排して、部落改善事業に尽瘁し、政治思想の普及、階級思想の改善に関し て、多大の功あり。
また中学校の忠海新設、豊田郡役所の忠海誘致に寝食を忘れて尽力せり。明治32年逝去、行年50歳なり。」(忠海商工会発行『忠海案内』P56)
明治維新を前後して、大活躍した明泉寺2代の住職を2冊の本から紹介しました。