福島正則にかわって浅野長晟が広島に移封されたのは1619年(元和5年)で、『玄徳公(浅野長晟)親諭書』によると、浅野藩の米蔵を沿海地方の尾道、忠 海、三原、竹原、三津に定め、忠海には5戸(第1号戸=米4000俵、第2号戸=米4400俵、第3号戸=米1700俵、第4号戸=米4400俵、新米 蔵=米4300俵)設けられた。この5カ所には官舎を建築し、中秋より冬季には浦辺蔵奉行が出張して米蔵算用役もしくは勘定所番組とともに貢米収納事務に 従事した、という記録が残っている。また浅野家4代光晟の『遺物分配状』の中に「讃岐雅楽頭殿え」として「忠海染付茶わん」という記録があり、忠海に関心 があったことが伺われる。
当時の忠海村租税528石3斗4升9合
1620年(元和6年) 加子役銀徴収
1624年(元和10年) 豊田郡中水軍船 忠海10反帆 2艘
1624年(寛永元年) 水主役、船床役、生船銀、焼船銀
1632年(寛永9年)浅野長治が三次に分封されてから、1720年(享保5年)後嗣廃絶のため広島本家へ還付されるまでの88年間、忠海は三次藩唯一つの港であった。
この港であった時代の忠海について、次のような記録が残っている。
1632年(寛永9年)12月27日定
貢租米高 1739石9斗1升5合 忠海村
物成 鍛治、水主役 3石2斗4升
1633年(寛永10年)正月11日 忠海へ御茶屋が作られる。
現在残されている『浅野因幡守時代御馬屋町附近図』によると、東の通りに「御用鍛治稼」、西が「松原通り」、北東の角に「浅野因幡守殿ヨリ勝運寺寄付地」 も在る。「町奉行所」、「御代官所」「御茶屋前場」には「御長屋番兵」溜池等あり、その当時藩主参勤の時の休憩所または宿泊所であったと思われる。
同年7月 植木助六を忠海の船奉行として住居させ、150石を賜っている。
同年11月26日 忠海に大火あり、家数百軒焼失したので、12月21日豊田郡中より材木500本、竹100束を賜る。
1634年(寛永11年)
浅野長治、豊田郡、世羅郡を視察した際、忠海に立ち寄る。
同年6月20日、上洛のため忠海を出船、7月18日忠海港へ帰還、忠海より大阪までの萬運賃米25石4斗1合、定加子、浦加子扶切米として植木半左衛門に渡す。
1639年(寛永16年)、1641年(寛永18年)、1643年(寛永20年)、1647年(正保4年)、1649年(慶安元年)、1651年(慶安3 年)、承応元年(1652年)、1654年(承応3年)、1656年(明暦2年)、1660年(万治3年)、1662年(寛文2年)、1666年(寛文6 年)と参勤のたびごとに忠海から出船している。
1667年(寛文7年)7月22日、 中国筋陸地巡見のため三次を出立、8月19日忠海到着、御茶屋並びに請(誓)念寺に泊。
1668年(寛文8年)6月28日参勤のため三次出立、7月2日忠海港より出船。
1672年(寛文12年)3月22日参勤のため忠海晩出船
1673年(延宝元年)5月25日忠海到着、忠海泊。
大雨の中午下刻到着
1674年(延宝2年)3月17日参勤のため暮時分乗船。
1675年(延宝3年)正月16日 浅野長治逝去
同年2月14日、遺体大坂より忠海まで船で帰還、同日未之下刻三次へ到着。
この文章は、倉本澄「浅野藩と忠海」(『竹原春秋』第20号)、倉本澄「浅野藩となっての二窓」(『安芸津風土記』第42号)から抜粋しました。