この大伯父清水南山の教えについては、平山郁夫『私の青春物語』(講談社)に詳しく書かれているので紹介しよう。
「試験を終えて郷里にもどってから数日後に合格通知を受け取りました。日本画科の定員は20人でしたが、学科試験の成績の悪い人が多かったということで、合格者は16人でした。私は最年少の16歳で、東京美術学校の予科に入学することになったのです。
合格を知らせに行くと、大おじはたいへん喜んでくれました。受験までは反対していた母も、合格したとなれば喜んでくれ、父とともに『一生懸命やりなさい』と励ましてくれました。そして大おじからは、いよいよ東京に行くというとき、これだけは忘れるなという心構えを聞かされました。
一、まず、古典を学べ。
日本は戦争に負けたが、これは科学技術や生産力で負けたのであって、決して日本文化が負けたのではない。いま日本美術は厳しい状態にあるが、これから新しい時代に向けて立て直していくのだ。アメリカの歴史は二百年だが、日本の歴史はそれよりもずっとずっと長い。そして日本文化の背後には中国の文化もある。古典を学ぶときは、ただ日本のことだけを考えるのではなく、さらにその文化の源流まで学ぶことだ。世界中の、人類がこれまで描いてきた絵画、彫刻、美術工芸その他なんでも優れたものにふれろ。東西の古典を学び、とりわけ東洋のものをよく勉強しろ。また、古典の勉強と同時に、自然をよく見ることが大切だ。写生をどんどんして自然から学べ。
二、一流に接しろ。
これからは、世界中の作品が日本に来て、展覧会が開かれるだろう。美術だけでなく、芝居、バレエ、オーケストラでも何でも、一流のものを見ること、聞くこと。二流のものではダメだ。お金はかかってもそれが投資だと思ってなるべく見る。まだ若い真っ白な状態のときに、最高のものにだけふれることに意味があるのだ。同じように、絵を描く材料も最高のものを使え。練習だからと粗末な材料を使うと、そういう心構えややり方が土台になってしまう。昔の人は書の練習に最高級の絹を使った。その緊張感、集中力が作品の質を高めたのである。だから、道具と材料は一流のものを使うこと。
三、向こう十年間は絵でお金を取るな。
修行中に絵で稼ぐことを覚えると、他の勉強をしなくなる。勉強中はただそれだけを純粋にやることが重要なので、万一アルバイトしなければならないときは、絵以外のことでやれ。もし絵を描くなら、金を取るな。現物支給で本でももらえ。ずいぶん厳しい教えです。『はい。そうするように努力します。でも、どうして十年間は絵で稼いだらいけないんですか?』『描いた絵が売れて金まわりがよくなった同級生で、堕落した奴が多かったからだ。未熟なうちに金を持つと、無駄な勉強をしなくなるだろう。しかし、そういう時期は無駄なことが大切なんだよ』大おじは、日清戦争時(1894~95)に学生でした。戦争に勝って日本中が浮かれ、景気は良くなり、学生レベルの絵でもいくらでもアルバイトの声がかかる時代だったのだそうです。プロとしての技術を身につけないまま堕落していった仲間を見ていたからこそ、その危険性がよくわかっていたようです。だからプロでやっていこうとするなら、十年は金を取るなと言ったのでしょう。
私が美術学校の受験を決めたとき、『生活が大変になるから』と言って反対した母を、大おじは珍しく金のことをもち出し、こう説得しました。『小林古径が描いた鮎の絵は、昭和18年当時で、三千円で売れた。鮎は三匹いたから、一匹千円だ。一流の芸術家になれば、それだけの金は取れるんだ』昭和18年といえば、私の中学時代の寮費が月十五円ですから、今の価値なら千五百万円くらいでしょうか。鮎一匹が五百万円です。一流クラスになればそこまで評価されるという大おじなりの理屈なのでした。『一流って言うけれども、それは日本で一人か二人くらいでしょう。ずいぶん大変じゃないですか』と私が言うと、『だから、そのくらいの気持ちを持たなければダメなんだ』と逆に一喝されてしまいました。実際、それくらいの心構えでなければ、とても芸術家など目指して頑張りきれなかったでしょう。
清水南山は私が入学して一年後、昭和23年に73歳で亡くなりましたが、この時の言葉は、学生時代を通して、またその後になっても私の大きな支えになりました。このあと十年間、絵でお金をもらわないという教えも守りつづけました。もっとも大おじの頃と違って、日々の米にも事欠くような生活ですから、絵などが売れる時代でもありませんでしたが。しかし、たとえ、声がかかっても引き受けなかったとは思います。」(平山郁夫『私の青春物語』P29~32)