中国新聞社編著『瀬戸内水軍を旅する』という本にも小泉氏についての記述がある。
「小泉氏は小早川一門で最も海賊的だった。(中略)南北朝期、小早川氏の主な領域は沼田本荘、沼田新荘、都宇・竹原荘だった。本荘の惣領家は足利氏方、新 荘の一部庶家が南朝方として戦い、一時は惣領家の城を占拠し、面目を失わせた。 だがこの時期、惣領家は本荘沼田川流域の塩入荒野を干拓。造成した新田を庶子に与えた。庶子は新田地を本拠とし地名を姓とした。小泉、小坂、浦、生口、猪 熊ら新庶家が生まれ、惣領家を支えた。小泉氏は氏平が始祖。干拓地のうち西部山寄りが領地である。
内海では伊予海賊衆が北上していたが、小早川氏は庶家を先頭に伊予衆を押し返す形で南下する。きっかけは伊予出兵だった。
興国3年(1342)10月、北朝方細川氏は伊予南朝方の世田山城(東予市)を攻略したが、小早川氏も細川氏の指示で参戦している。途中、南朝方拠点の生 口島を落とし、南隣りの弓削島を占領した。翌年の因島制圧にも加わったらしい。合戦後、小早川氏は島の利権を狙い、居座り・乱入を繰り返した。弓削島では 恩賞に所務職を得て、庶家四氏が入った。だが、四氏は年貢を横領したため領主の京都東寺から訴えられた。幕府(北朝)は退去を命じたが、四氏は居座った。 幕府は使者を入れて強制退去させ、東寺は伊予海賊衆を雇って警固した。だが、小早川氏はすぐに乱入。その後、島を占拠したが、その先頭に立ったのは四氏以 外の庶家小泉氏だった。
小泉氏は因島でも居座り、年貢を横取りしたらしい。足利尊氏と弟直義が争う観応の擾乱が始まると、一時期、反尊氏派が島を占拠、幕府は小早川惣領家に地頭 職を与えて守らせた。だが同家も『乱妨』を働くと領主東寺から訴えられ、地頭職を取り上げられた。同家も居座りを続け、島を勢力下に取り込んでいく。
やがて小泉氏二代の宗平は、伊予国越智郡大島の地頭職となる。宗平なら周辺の伊予海賊衆を抑え、島を管理できると認められたからである(『三原市史』)」(中国新聞社編著『瀬戸内水軍を旅する』P85~87)
杜山悠著『歴史の旅 瀬戸内』にも小早川氏の庶家についての記述があるので紹介しよう。
「小早川氏は中世から近世初期にかけての安芸の豪族。相模の土肥実平の子遠平が安芸沼田荘地頭職に補任。養子景平がこれを継ぎ小早川氏を称したのに始ま る。(中略)小早川の分流では、沼田の小早川家から出た小泉家と浦家と生口家がよく知られていて、小泉氏平は小早川宣平の子で小泉村を分封地とし、南北朝 時代に活躍して名をあげた。浦家の氏実も小早川宣平の子で、沼田川の下流田野浦に分立したのに始まり、室町中期に入って忠海に城を築いて移った。(中略)
生口島地頭となった惟平も宣平の子で、小泉氏平、浦氏実、生口惟平というふうに兄弟が海に一斉に向かって進出する態勢をとっている。惟平が拠った生口島瀬 戸田は、航海業者たちの一つの拠点で商船の往来が激しく島内生活もその刺激を受けて活発になり、自由の気風に充ちた明るい世界が開けていた。生口船とか瀬 戸田舟とかいわれたこの島の商船は、小早川生口因幡守道貫(惟平)支配のもので、商船とはいいながら、半面には海賊的性格も持っていて、兵庫の関など平気 で無視して通ったといわれる。また本荘小早川(本家沼田)でも能美島に進出し、大崎上島(近衛家荘園)にも南北朝の動乱期に入り込んでその支配権を持っ た。竹原小早川の海島進出もやはり始まっていて、景宗(二代)のとき安芸の高根島を含めた地頭職として島嶼に一つの足がかりをつかんだ。結局、このように して小早川一族が所領とした島々はおびただしい数にのぼり、その主なものでも、因島、佐木島、高根島、生口島、越智大島、大崎上島、生野島、大崎下島、豊 島、三角島、波多見島、能美島、向島、江田島、倉橋島、上下蒲刈島などがあげられる。」(杜山悠『歴史の旅 瀬戸内』P222~225) ここに出てくる浦氏が忠海に築いた城は大平山の久津城である。