R185みちばた会議に参加していることもあって、2年続けて「夢街道ルネサンス・フォーラム」に参加した。その講師が神崎宣武氏で、最近岩波新書から『江戸の旅文化』という本が出版された。その中に江戸の旅文化を代表する講について述べた箇所があるので抜粋しよう。
「江戸時代は、寺社詣でを大義として庶民の旅が発達した。その多くは、講をなしての団体行であり、その費用は、積み立てた講費をかぎられた代参者が遣う ことでなりたっていた。」(神崎宣武『江戸の旅文化』P134~135)「寺社詣での旅は、抜け参宮やおかげ参りを除くと単独行が少なく、ほとんどが 『講』を組織しての団体行であった。そして、それは『代参制』を基盤としていた。江戸期の旅を発達させた制度として、あらためて講組織に注目しなくてはな るまい。講とは、ムラなり町内を基盤に組織された有志集団である。相互融資が目的の頼母子講、大工仲間の賃金協定の機能をもつ太子講、地縁の信仰組織であ る二十三日講、日待ち講、明神講、荒神講、観音講などがある。そして、ここで問題にするのは、伊勢講をはじめ、浅間講(富士講)、御嶽講、白山講、大峯講 などの寺社詣でが目的の講である。ちなみに、講は、講親を中心に民主的に運営されるものが多かった。講親は当屋(頭屋)ともいう。その講親は、世襲される こともあったが、経験を積んだ者が何年かごとの任期で務める例が多かった。また、年番制で講員が順番に務める例もあった。寄り合いの場所も、大会所や堂庵 を協同で借りたり、講員がもちまわりで自分の家を提供した。そこに、村落組織ほどに法則が明らかでないのは、有志集団であるので当然といえば当然のことで ある。(前掲書P145)
竹原書院図書館で西海賢二著『石鎚山と瀬戸内の宗教文化』という本をみつけた。この本のなかに忠海二窓の石鎚講のことが書かれているので紹介しよう。
「石鎚山が『其の山高く嶮しくして凡夫は登り到ることを得ず。但浄行の人のみ登りて居住す』るしかなかった山から、一般の人びとが登拝する山になったの は、近世も中期以降講中が組織されるようになってからであろうと思われる。これは昭和55年11月の大火で消失したが、中宮成就社遥拝殿殿前にあった常夜 灯や西条市西田にある石鎚神社参道にある享保2(1742)年3月造立の常夜灯、宝暦9(1759)年11月造立の常夜灯、宝暦12(1762)年6月の 新居郡講中によって造立されている鳥居や、広島県竹原市忠海町福本講中が保管する幟には宝暦14(1764)の銘があることからもうなずけよう。」(西海 賢二『石鎚山と瀬戸内の宗教文化』P106~107)
「石鎚登拝には先達さんがいて、この人達につれられて登拝するしきたりである。先達さんは講中をとりしきる講元であることが多い。講元は近世期には講頭と呼ばれていた。
当山講頭之事令許容□
弥可有抽篤信誘引
有信之輩もの他□如件
石鉄山別当
前神寺・
安政三年辰五月
芸州東二窓
九郎兵衛
とあるように、講頭は講中にとっても石鎚山にとっても重要な役職であった。(中略)広島県竹原市福本講中では、お山大祭中の石鎚参拝に先立って、6月最 終の日曜日に講員8名が講元宅に参集して、幟起こしの行事が行われる。幟起こしでは丸に石の印しと石鎚神社と染め抜かれた幟一本が講元宅に立てられる。幟 起こしの行事は、すでに近世中期より行われていたことは、講元宅に保管されている宝暦14(1764)年石鎚大権現の幟の存在によって知ることができる。 このような行事は、岡山、広島、山口県下一円にみられるほか、愛媛県下のとくに東・中予地方の村々で現在でも見ることができる。毎年6月半ばともなると、 瀬戸内沿岸の村々ではあちこちでこうした石鎚講の幟起こしが行われ、潮ごりをとりお山大祭を待つのである。」(前掲書P106~109)
「また忠海町二窓には文化13年8月吉日に造立された『金毘羅大権現・石鉄大権現・大峯山』と刻まれた常夜灯がある。」(前掲書P127~129)
「愛媛県西条市の黒川・今宮の両地区は毎年のお山大祭中、多数の信者を宿泊させる季節宿として繁盛していた。各季節宿の庭などには『石鎚大権現』『石鎚 神社』『石鎚大先達』などと染め抜かれた幟が林立し、林間にはホラ貝の音がこだましたものである。(中略)各季節宿それぞれに各講中との提携があり、毎年 必ず泊まる定宿となっていた。このため宿の入り口には瀬戸内沿岸を中心に常連の講中の歓迎と目印をかねた、木札・紙・布などのマネキが打ち付けられてい た。マネキには『備後国又八組』『安芸国忠海講中』『安芸国西山講中』『安芸橋本組』『備中鬼石組』『周防大島講中』『備後尾道吉和講中』『安芸大崎講』 『阿波赤心講』『備後久井講社』などと書かれていた。このマネキを見るだけでも、現在の広島県・岡山県・山口県・徳島県などの石鎚信者が各季節宿を定宿と していたことがわかる。食事は精進料理である。山村の米不足のため、多くの登拝者は米を持参していた。この他、みそ汁、豆腐、あげ、豆、竹の子、干し大 根、コンブ、沢庵などが副食物であった。また、岡山・広島・山口などの漁業従事者を中心にした講社などは、活魚などを持参して宴をはることもたびたびあっ たという。」(前掲書P235~237)
この石鎚講は、江戸時代の寺社詣での講の形態をよく伝えている。またこのような寺社詣でができなくとも、黒滝山や大平山一山で西国33カ所や四国88カ所の霊場を廻ることができるミニ霊場がそれぞれ江戸中期につくられていることも当時の旅文化を知る上で興味深い。